スコット・フィッツジェラルド  グレート・ギャツビー

 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
 僕が大学生の頃偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。(「風の歌を聴け」より)

 僕がまだ年若く、心の傷を負いやすかった頃、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」(「グレート・ギャツビー」より)

 という冒頭の文章。ひと夏の物語であること。そして“鼠”は明らかに村上版“ギャツビー”であるし、「風の歌を聴け」の最も印象的なフレーズのひとつ

 「ねえ、人間は生まれつき不平等に作られてる。」
 「誰の言葉?」
 「ジョン・F・ケネディー」

 あたりの言い回しも、明らかに「グレート・ギャツビー」は村上さんのデビュー作「風の歌を聴け」の元ネタ的存在で、村上さん自身にとっての最重要作品であることは間違いない。「グレート・ギャツビー」のあとがきで、もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、レイモンド・チャンドラー「ロング・グットバイ」、どうしても一冊だけにしろと言われたら迷うことなく「グレート・ギャツビー」を選ぶ、と書いてるくらいだものね(「ロング・グットバイ」の関しては明らかの「羊をめぐる冒険」の元ネタ的存在だな)。

 というわけで、およそ20年の年月をかけてついにというか、満を持しての翻訳「グレート・ギャツビー」出版、パチパチパチ、誠にめでたい限りです。僕も村上さんほどではないにせよ「グレート・ギャツビー」は好きな小説で、本棚にある野崎孝訳の「グレート・ギャツビー」の文庫本は結構ボロボロになるまで読み込んできた。それでも昭和49年発行とあるからもう30年以上前の翻訳であるわけで、文章自体古臭くはなっているのは確か。それが今回僕の敬愛する村上さんによって現代的に、本人の言葉を借りるなら“翻訳のバージョン・アップ”をされて再び手に取れたことは実に喜ばしいことです(そういえば旧版「ライ麦畑でつかまえて」も野崎孝訳だ。何度挑戦しても途中で放り投げてしまっていたけれど、やはり村上さん訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でようやく読み通すことができた。村上さんと野崎孝氏って因縁浅からずという気もするのだけれど、そこらへんはどうなのだろう?)。

 その“翻訳のバージョン・アップ”についてだけれど、作品中僕の一番好きなシーンを一例に。

 彼はワイシャツの一束をとりだすと、一枚一枚ぼくたちの眼前に投げてよこした。薄麻のワイシャツ、厚手の絹のワイシャツ、目のつんだフランネルのワイシャツ―それらが投げだされるがままにひろがって、テーブル一面に入り乱れた色とりどりの色彩を展開した。僕たちが感嘆の言葉をはくと、彼はさらに多くをとりだしてくる。柔らかい豪奢な山がますます高くなっていく。さんご色や、淡緑、藤色に淡い橙、縞あり、雲形あり格子縞あり、それらにイニシアルの組み合わせが濃紺色ではいっているのまである。突然感きわまったような声をたてて、ディズィは、ワイシャツの山に顔を埋めると、激しく泣きだした。
 「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中からこもって聞えた。「なんだか悲しくなっちまう、こんなに―こんなにきれいなワイシャツって見たことないんだもの」(野崎孝訳)
        
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 ギャツビーは一山のシャツを手にとって、それを僕らの前にひとつひとつ投げていった。薄いリネンのシャツ、分厚いシルクのシャツ、細やかなフランネルのシャツ、きれいに畳まれていたそれらのシャツは、投げられるとほどけて、テーブルの上に色とりどりに乱れた。僕らがその光景に見とれていると、彼は更にたくさんのシャツを放出し、その柔らかく豊かな堆積は、どんどん高さを増していった。縞のシャツ、渦巻き模様のシャツ、格子柄のシャツ。珊瑚色の、アップル・グリーンの、ラヴェンダーの、淡いオレンジのシャツ。どれにもインディアン・ブルーのモノグラムがついている。出し抜けに感きわまったような声を発して、デイジーは身をかがめ、そのシャツの中に顔を埋めると、身も世もなく泣きじゃくった。
 「なんて美しいシャツでしょう」と彼女は涙ながらに言った。その声は厚く重なった布地の中でくぐもっていた。「だって私―こんなにも素敵なシャツを、今まで一度も目にしたことがなかった。それでなんだか急に悲しくなってしまったのよ」(村上春樹訳)

 同じ英語を元にしながらこうも印象の違う文が出てくることはやはり驚きですね。村上さん言うところの“翻訳のバージョン・アップ”は確かに成功しているような気はします(因みにこのシーンは明らかに「トニー滝谷」の元ネタ的部分ですよね)。

 また今回改めて思うのは、村上春樹の英文学、それも現代の英文学を日本に紹介するという一面においての貢献の大きさです。レイモンド・カーヴァーについては言うまでもなく、スコット・フィッツジェラルド、ジョン・アービングだって村上さんなしにはこれほど日本で紹介されることはなかったと思う。それが今までは日本ではまず紹介されることのなかった、地味でいわゆる玄人受けする作品の翻訳に徹していた村上さんがここにきて「キャッチャー・イン・ザ・ライ」や「グレート・ギャツビー」、春に出版される予定だという「ロング・グットバイ」など、既に名声が固定している小説群に敢えて挑戦しているのも、20年以上かけて到達した翻訳に対する村上さんの“自信”が伺えて頼もしい限りです。その繋がりで、僕が偏愛する、でも世間的評価としては異様に低いヘミングウェイの「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」も翻訳してくれないかな、なんてな。

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