J・アーヴィング 「ホテル・ニューハンプシャー」

 現代のアメリカ文学界においてジョン・アーヴィングがどのような位置を占めているのか、僕は知らない。僕自身、暇を持て余していた若い頃と違ってそんなに読書に時間をかけれないし、新しい本に挑戦していくよりは、以前に読んだ本をまた再読するほうが気楽になってしまっているという部分もあって、僕自身の中では比較的“新しい”作家であるアーヴィングも、アメリカではすでに重鎮的存在であるのか、あるいは未だに異端的存在であるのかは、よくわからない。またそんなことはどうでもいい気もする。ともかく僕にとってこの「ホテル・ニューハンプシャー」は、多分これからも折に触れて再読を重ねていく小説なのだろう。それはヘミングウェイの「海流の中の島々」やチャンドラーの「長いお別れ」、開口健の「夏の闇」、池澤夏樹の「マシアス・ギリの失脚」などと同じように、既に僕個人のパーソナリティーに組み込まれてしまったものだから。これらの小説の主人公に比べて、自分が余りに卑小な存在であることは百も承知しているけれど、まあそれを誰に糾弾される恐れもなさそうだし、大体そんなの僕の勝手でしかないもんね(笑)。なんかしょーもないこと書いてるけど、要するにこの長編が大好きだってこと。

 レイモンド・カーヴァーほどではないにしても、村上春樹さんはジョン・アーヴィングについてはエッセイなどでいろいろ書いてて、またアーヴィングの処女長編「熊を放つ」の翻訳も手掛けている。以下は「熊を放つ」の訳者あとがきからの引用。
 
 もちろん僕はジョン・アーヴィングとバルザックとを同列に論じているわけではない。僕が言いたいのは、少なくても1960年以降、アーヴィングほど素直にそして率直に小説の力というものを信頼し、ジャンルや流行、文学理論といったものには無関心にその独自の小説世界を創りあげた作家はいなかったのではないか、ということだ。その意味では僕はアーヴィングの小説を愛しているし、評価している。彼の小説を構成するひとつひとつのファクターは確実に彼という核から直接に発しているし、読者はそのラインを逆に辿ってその核に到達することができる。それが要するに「生きた小説」である。「生きた小説」だけが読者をグリップできるのだ。

 村上春樹さんにとってレイモンド・カーヴァーはある意味、師匠のような位置にある作家という気がするのだけれど、ジョン・アーヴィングに関しては、どうも常に一歩先を行き続けるような永遠のライバル的な存在という気がするのだ。あながち僕の勝手な想像でもないような気がするのだけれど、どうだろう。

 僕として一番望むのは、村上さんにはこれからもずしりと読み応えのある長編を書いていって欲しい。そしてどんな長編をと言われたら、迷わずこの「ホテル・ニューハンプシャー」のような長編を、と答える。そういうことなのだ。どういう点で、ということを箇条書きしてみると
@家族を描いたもの―村上さんの今までの小説の中で家族が描かれたことはまだない、と言っていいと思う。特に縦の家系、両親、さらに祖父母、子供たちとの関係。そういう大きな時間の流れを感じさせるような大河小説が読みたい。
Aワールドワイドなもの―村上さんの長編で特に面白いものって、いわゆるロード・ムービー的に場所が移動していくものが多い。東京から北海道、ハワイ、アメリカ、イタリヤ、四国、ギリシャ、モンゴル、神戸…登場人物が小説のストーリーに翻弄されながら、どんどん移動していくものが読みたい。
B読みやすくて面白い―誠実に真剣に、そしてかなりの危機感をもって書かれながらも、やはり芸術は娯楽性がなければならないし、ユーモアを忘れてはいけないものだから。
C暴力が描かれているもの―別にバイオレンスは好きじゃないんだけれど、サリン事件と阪神・淡路大震災は今や村上ワールドの避けて通れないキーワードになってるし、これだけテロが横行している世界だもの、小説の中で暴力を描かずには済まされない。
Dしかし小説全体を流れるテーマは温かいものでなければならない―そしてこれが一番重要なことだけれど、どれほどシリアスな状況にあっても、人は信じること、愛することでしか先に進めないのだから。
 今の日本の作家で、これらの条件を満たす本当の純文学的長編を書ける作家といったら、やはり村上春樹しかいないと、僕は確信しているわけなのですよ。 

 ところで「ホテル・ニューハンプシャー」は映画化もされています。これだけ長い長編の映画化にしては、映画自体はそんなに長くなく非常にまとまっている、いささか話を端折りすぎた観もありますが、全然悪くない出来です。全体的に悲劇的な話にもかかわらず、観終わってからの読後感?が温かいものが残るんですよね。ジョディ・フォスターがまだ若くてぴちぴちしてるし(笑)。

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