レイモンド・チャンドラー 「ロング・グッドバイ」

 レイモンド・チャンドラーの最高傑作『長いお別れ』が、村上春樹の訳『ロング・グッドバイ』として装いも新たに帰ってきた。清水俊二訳『長いお別れ』は僕自身にとってもっとも重要な小説のひとつであり、この20年以上のあいだ再読を重ね、文庫本ももうボロボロになってしまってるくらい好きな小説だ。僕はチャンドラーの小説、フィリップ・マーロウものは大体揃えていて『大いなる眠り』や『さらば愛しき人よ』なんかも好きだけれど、再読を重ねるという点では『長いお別れ』の比ではない。それはやはりこの小説がフィリップ・マーロウに加えて、テリー・レノックスという稀有なキャラクターを創出し、この二人の友情が小説全体を通して太い縦糸として存在し続けていることが、他の作品と大きく差をつけていることに間違いはないと思う。

 『長いお別れ』の名台詞といえば、「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」(清水俊二訳)→「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(村上春樹訳)が、この小説の代名詞のようにまでなっているけれど、僕としてはフィリップ・マーロウとテリ―・レノックスが、小説のまだ冒頭近く、友情を交わす次のシーンの台詞が一番好きだ。以下、前が清水俊二訳『長いお別れ』、後ろが村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』

 私たちが最後にバーで酒を飲んだのは五月に入ってからで、いつもより時間が早く、四時を回ったばかりだった。彼はつかれて、やつれているように見えたが、かすかな笑みをうかべて、楽しそうにあたりを見まわした。
「僕は店をあけたばかりのバーが好きなんだ。店の中の空気がまだきれいで、冷たくて、何もかもがぴかぴかに光っていて、バーテンが鏡に向かって、ネクタイがまがっていないか、髪が乱れていないかを確かめている。酒のびんがきれいに並び、グラスが美しく光って、客を待っているバーテンがその晩の最初の一杯をふって、きれいなマットの上におき、折りたたんだ小さなナプキンをそえる。それをゆっくりと味わう。静かなバーでの最初の静かな一杯―こんなすばらしいものはないぜ」
 私は彼に賛成した。
「アルコールは恋愛のようなもんだね」と彼はいった。「最初のキスには魔力がある。二度目はずっとしたくなる。三度目はもう感激がない。それからは女の服を脱がせるだけだ」
「そんなに汚いものなのか」と、私は尋ねた。

 我々が最後にバーでともに酒を飲んだのは五月のことだ。その日はいつもより時刻が早く、まだ四時をまわったばかりだった。テリーはつかれているらしく、やつれてみえたが、それでも愉しげな、ゆるりとした微笑を浮かべて周囲を見まわした。
「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。店の中の空気もまだ涼しくきれいで、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡の前に立ち、最後の身繕いをしている。ネクタイが曲がっていないか、髪に乱れがないか。バーの背に並んでいる清潔な酒瓶や、まぶしく光るグラスや、そこにある心づもりのようなものが僕は好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作り、まっさらなコースターに載せる。隣に小さく折り畳んだナプキンを添える。その一杯をゆっくり味わうのが好きだ。しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル―何ものにも代えがたい」
 私は賛意を表した。
「アルコールは恋に似ている」と彼は言った。「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」
「どこがいけない?」と私は尋ねてみた。

 もちろん原典が同じなのだからストーリーの展開に違いはないのだけれど、今回読んでみて、僕には村上訳の方がどことなく上品な感じがした。ハードボイルドというと、探偵か刑事が主人公で、やたらマッチョな男がピストルを撃ちまくり、スポーツカーを走らせ、女を抱きまくりというイメージがあって、日本でいうと大藪晴彦原作=松田優作主演というイメージで固定してるような気がするのだけれど(もちろんレイモンド・チャンドラーの小説はそれら一般的なイメージ先行のハードボイルドとは一線を画す)、それにしても村上訳のチャンドラーはハードボイルドなイメージが大分薄れ、村上春樹の『羊をめぐる冒険』に近い(どちらが元ネタかというともちろん『長いお別れ』だ)純文学的な雰囲気が漂うものになったなあという感じがしました。ただそこらへん、僕の漠然とした感想だったのだけれど、この村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』に関し、4月1日の毎日新聞に丸谷才一氏による評が掲載されていて、これが僕が今までこの小説に対して持っていなかった視点を提示してくれていて面白かったです。曰く、『ロング・グッドバイ』は巻き込まれ型の社交界小説だな、と。以下、そこからの引用。

 彼(村上春樹)はハードボイルド系の探偵小説という傍系の作品を文学の正統に位置づけた。現代アメリカ西部のやくざな作中人物達は、彼の訳筆のせいでヘンリー・ジェイムズやイーディス・ウォートンの贅沢で洗練された世界に近く生きることになり、新興国のマチスモ(男っぽさ)の悲哀は普遍的な人生の憂愁に変じた。つまりチャンドラーの最高の作は面目を一新してわれわれの前にあることになった。このことの重要性にくらべれば、初訳にあるのが当然の不備や脱落を正したことなど、言うに値しない。

 チャンドラーは本当は純文学を書きたかったけれど、その線でゆけば自分の魂をさらけ出さなければならぬ。それで娯楽ものを書いた、という説がある。よく言われるこの解釈にのっとって訳したのが清水訳で、それに逆らい、彼の魂をあらわにしたのが村上訳、とも言えよう。韜晦をじかに移すのが忠実なのが、深部を表に出すのが正しいのかは、翻訳論のややこしい課題になるにしても。

 ふむふむ、さすが丸谷先生、視点の置き方が明瞭であります。そしてこの『ロング・グッドバイ』には村上春樹自身による90枚に及ぶあとがきがついていて、そこから氏がいかにチャンドラーから影響を受け、その手法を意識的に取り込んでいったかが書かれていて、上手い言い方が見つからないのだけれど、言ってみれば手品の種明かし的な面白さがあったそこも興味深かった。以下そこからの引用。

 このような文学手法はもちろんチャンドラー一人が発見したルートではないし、そのような文章スタイルを彼が自力で打ち立てたわけではない。彼の前には先達としてのアーネスト・ヘミングウェイがいるし、ダシール・ハメットがいる。心理描写を徹底的に削ぎ落とした、そのようないわゆる「非情」系統の文学がある。ヘミングウェイはその登場によって、アメリカ文学の文体の可能性を革命的に押し広げた。行為こそが心理を表象すると彼は考えた。

 実例を挙げてみよう。たとえば『武器よさらば』の最後近くに、恋する女性が生と死の境を漂っているあいだ、不安と焦燥に駆られた主人公が病院の近くのカファでいろんなものを食べる描写がある。ヘミングウェイは主人公の不安と焦燥についてはほとんど何ひとつ語らない。ただ彼がどんなものを食べどんなものを飲んだかということだけを緻密に、しかし簡潔に書く。カフェの様子や、そこにいる人々や、ウェイターと主人公とのあいだで交わされた実際的な会話だけが短く提示される。それを読むことによって、主人公がどこまで精神的に追いつめられているのかを、読者はありありとフィジカルに理解することになる。

 チャンドラーは自我なるものを一種のブラックボックスとして設定したのだ。蓋を開けることができない堅固な、そしてあくまで記号的な箱として。自我は確かにそこにある。そこにあり十全に機能している。しかしあるにはあるけれど、中身は『よくわからないもの』なのだ。そしてその箱は蓋を開けられることをとくに求めてはいない。中身を確かめられることを求めているわけでもない。そこにそれがある、ということだけがひとつの共通認識としてあれば、それでいいのだ。であるから、行為が自我の性質や用法に縛られる必要はない。あるいはこうも言い換えられる。行為が自我の性質や用法に縛られていることをいちいち証明する必要はないのだ、と。それがチャンドラーが打ち立てた、物語文体におけるひとつのテーゼだった。

 そのような彼のやり方はいわゆる「本格小説=純文学」の世界に何かしらの影響を与えただろうか?間違えなく与えたはずだ。個人的なことを言わせていただけるなら、少なくても僕はずいぶん影響を受けた。彼に差し出された皿を目の前にして、「そうか、なるほど、こう言う風な書き方もありなんだ」と思わず膝を打たされた。つまりそういう書き方をすれば「純文学」においても、ある種の回路をやり過ごすことができるはずではないか、と思ったのだ。コロンブスの卵ではないが、それは実に新鮮な発見だった。

 なるほどね。あとがきにはその他にもチャンドラーとフィッツジェラルドの関係、共通点などについても記述があって、僕は今までこの二人の作家に何か共通点があるなんて考えてもみなかったから、その部分もとても面白かったです。

 人は何故生きるのだろう?僕は時々考える。日々の生活を保つだけで精一杯の僕にしてみれば、考えても仕方のないことかもしれない。それでも、やはり時々は考えなくてはいけないことだと思う。だって、ただ生活して、そして歳をとっていくだけの毎日じゃ切ないもの。何らかの意味付けを無理やりにでもしていかないと、それこそ折り返しのないものになってしまうから。さて、再び問題提起。人は何故生きるのか?長年考えている疑問なのだけれど、今のところの答え。

 そこで、僕はまず人間を男性と女性に分けて考えてみる。まず、女性。女性の場合は割と簡単に答えが出ている気がする。体の造りが明らかにそう出来ているから。それは子供を産み、育て、人類の存続を図っていくこと。こんなことを言うと、すぐ女性蔑視なんて声が聞こえてきそうだけど、子供を産むってことは男には絶対出来ない、女性だけに可能な行為。そもそもこの地球上の生命体の全ての目的が子孫を残し、進化を続けるというその一点に集約されているような気もするし。より優秀な種を存続させ洗練させていくことが生物の究極の存在意義だとすれば、子孫を生産する能力のない男性は、ただ女性という存在の周りをぶんぶんと飛び回る、女王蜂に対する働き蜂のごとき存在という気がする。ただ、だからその分女性の生き方というのはつまらないという言い方も出来てしまう気がする。あまりにかっちりとしたセオリーがもう存在してしまっていて、姿勢が保守的にならざるをえないし、そこから外れようとすると必要以上に大きな障害と向き合わなければならなかったりする。その障害はほとんど100パーセント、自分達の既得権を頑固に守り通そうとする男達によるのだけれど。

 では男性は?金?権力?名誉?愛、という言葉は女性の存在意義を補完していくための手段を、最も美しい言葉で言い換えたものなのではないかなのではないかと僕は密かに疑っているし。男なんて所詮は女王蜂に対する働き蜂だからさ、たいした存在価値なんかなくて、その存在価値を無理やりにでもこしらえなきゃいけなかったから、古代から戦争、冒険、芸術、文学、美食、放浪、哲学、宗教、放蕩、音楽…あらゆる分野で右往左往してもっともらしい権威を築き上げてきたのではないかと。でもそれら全てを無価値なものと断定してみても、それらの原動力となるこのたった一つのものだけは、僕ははずして考えることが出来ない。それは時に、あまりにも馬鹿馬鹿しく見えるものだし、軽く扱おうと思えばいくらでも軽く扱えるものだから口にするのさえ恥ずかしい感覚があるのだけれど、それでもこの言葉しか、今のところ結論が見出せない…誇り。

 誇りって一体何なんだろう?ま、くだけた言葉でいえばええかっこしいってことなのかな。誰か他人が自分はこうであるだろうと期待している、その理想像を裏切らないこと。その他人があるときには愛する女性であるであったり、家族であったり、時には組織であったり。でも究極の他人とは自分を第三者的に見つめる自分自身であったりする。自分を裏切らないこと。それが誇りという言葉の本当の意味なんじゃないかな。こんな難しいことってないと思う。自分の中で方向転換したところで、自分でそれを許しちゃえばいくらでも変更可能なものになってしまう。自分で自分自身のプライドを失墜させることのいかに容易なことか。それから特殊な状況下に置かれた場合、たとえば暴力とかよって叩きのめされた時のダメージの大きさって言ったらないものね。女性がレイプされるのに比べれば甘いんだよって気もしないでもないけど。「俺ってプライド高いから」なんて平気で口にする男も(女も)いるけれど、それはただ自分勝手であったり、お子ちゃまであったりするだけである場合がほとんどであり、そもそも誇りとかプライドとかいう言葉は、それを言葉として口にするだけで価値が相当に下がる。男は(ここで突然「男とは」なんて前時代的な記述になるけれど)誇りを体現するためになら、時には命すら賭けなければならないし、またそれが出来ない男の方が圧倒的に多いわけで。

 僕自身は“男の誇り”というものの、その多くを小説ではレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』におけるフィリップ・マーロウ、ヘミングウェイの『海流の中の島々』におけるトマス・ハドソン、開口健の『夜の闇』の主人公である“私”、映画では雀洋一監督の『友よ、静かに瞑れ』における藤竜也、原田良雄、林隆三、黒澤明監督の『椿三十朗』における三船敏郎の演技から学んだ。別に笑われたって構わない。そして今も、小説や映画における彼らの年齢を超えてしまった今においても、少しでも彼らに近づきたいと本気で思っている。

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