藤原新也 「黄泉の犬

 僕と同じ世代の日本人に“今まで一番印象に残ったテレビの映像”というアンケートをとったら、多分ここら辺が上位にくるのではないかという映像を考えてみた。湾岸戦争でモスクが影となって浮かび上がる夜空に蛍の乱舞のように輝いていた対空砲火の光。地下鉄サリン事件で地下鉄の改札から地上の出口にかけて蠢いていた被害者の姿。カメラの目の前で刺殺された村井。オウム真理教の富士山麓のサティアンに機動隊がカナリヤの鳥かごを先頭に乗り込んでいった風景。阪神淡路大震災で、広範囲を炎に包まれ倒壊していった神戸の街並み。酒鬼薔薇事件における校門の風景。9・11において世界貿易センターに突っ込んでいった旅客機。特にオウム関連のニュース映像は間違いなく上位に食い込んでくることは間違いない。しかしあの事件から既に15年近くの月日が経ち、悲惨な殺人事件が後を絶たず日々更新されていく日常の中で、あれだけの大事件も既に風化を免れない。一体あの事件はなんだったのか、という素朴な疑問はまったく解消されないまま。

 僕自身に関しては僕の一番敬愛する作家である村上春樹が、多くの村上春樹ファンにとっても意外であったに違いない「アンダーグラウンド」を上梓したこともあり、また映画「A」「A2」(決して面白い映画ではない)も見て、それ以外にもオウム関連の文献には興味は持って接してはきた。しかしここ(2006年発行)にきて藤原新也がオウム真理教の事件に関して著作を出してくるとは、ちょっと虚を突かれた思いだったことも確か。いかにも藤原新也が語りそうな題材なのに、今まで著作がなかったのが不思議なくらいだものね。その時期的“ずれ”については、著者自らがあとがきにおいて明らかにしているけれど。そしてその問題の切り口は、またもや軽薄な僕の意表を突くものだったので、これもまた面白かった。オウム真理教の各サティアンを収めた例の即物的な写真とともに、オウムの元信者とのインタビューを重ねるというようなものを予想したので。でもそれでは村上春樹の「約束された場所で」と同じような、決して理解しあえないという絶望感が漂う、そしてやや退屈な代物にならざるをえないだろうなと。
 
以下、「黄泉の犬」からの長い引用

 それは麻原彰晃のきわめて個人的な精神の回路であり、一般論に結びつくものではないということをまずここで断った上で触れるなら、私はオウム真理教の出来事は、一つには麻原個人の「身体の出来事」であったと見ている。彼は幼少の頃から左眼の視力がなく右目は弱視だったと言われている(それは兄満弘の証言によって異なった解釈をすべきものとなっているが、いずれも真偽のほどはわからない)。彼の折々の言動に見られる他者への異常とも思える敵視、そして時折噴出する怒りや憎しみの相。その情操はオウム真理教のたびかさなる社会との確執や挫折の中ではぐくまれた面もあるが、さかのぼるなら源泉は彼が幼少の頃より背負いつづけなければならなかった器官コンプレックスにあるように思われる。そして仮のその疾病の原因が水俣の水銀にあり、にもかかわらず患者として認定されず放置されたとするなら、その怨念が社会や体制に向かうのも一つの道理であるのかもしれない。(中略)つまりオウム教団とはひとつには麻原の身体的病理が他者に課した屈折した自己拡張(報復)の現われではないかということだ。

 そしてここでもう一つ着目したいのは、この教団の特質である現実に対する遮蔽性が麻原個人の特異な私的身体性のゆえに生まれたものと考えられるにもかかわらず、麻原とは世代も育ちも共通項の見られない都市型のごく普通の育ちの青少年の多くがそれに参加し、彼の闇への同化のルツボの中へと時に熱狂的なまでの情熱を持って飛び込んだということだ。ということは都市の青少年もまた麻原とは違った回路で、あらかじめ現実社会に対する遮蔽性を色濃くその精神身体に刻み込んでいたということになる。つまりその異なった個人史を持つ二つの精神身体が、現世遮断という共通の指向性を持っていたことによって一丸となりえた、というオウム事件をめぐるさまざまな構図の中のひとつがここに浮かび上がるわけである。

 「黄泉の犬」においては藤原新也のインド体験を軸に、翻って麻原と都市の若者達との共通の志向性を炙り出していこうとするのだが…。

 麻原と水俣病の関係について、それを鵜呑みにする気はないが、少なくても今ままで数多語られてきた麻原という男の“動機”についてこれだけ筋の通った仮説は初めてだと思う。ただ僕としてはそれだけではもうひとつ足りない。麻原と若者達の集団の間を結びつけ、言い方を変えれば冷酷な組織として秩序だてていったキーパーソンとして、早川という男を徹底的に検証しなければいけないと思う。要はカネの流れということだけど、そこから全共闘あたりとの暗い繋がりがありそうだ。それから、現代の若者全体を覆う問題として、どこか脳の器官に対する障害、話が余に荒唐無稽になってしまうと思うけれど、携帯やPCによる電磁波の問題、遺伝子組み替えの食糧の問題、ダイオキシンの問題。水俣のレベルをはるかに超える“公害”の問題が絶対にあると思う。その方面からアプローチしてくれるジャーナリストはいないのだろうか。


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