ノルウェイの森                                    

 村上春樹の「ノルウェイの森」を久しぶりに読んだ。この本は単行本がぼろぼろになるくらい、おそらく10回以上は読んでいると思うのだけれど、今回の再読には少なくても5年以上の間隔があいたと思う。一時期あまりに集中して読んでしまったために、この本を読むとその頃の感覚がひどくざらりとした感触を伴って蘇ってきてしまい、どうも冷静な気持ちでいられなくなる。でも今回の再読においては自分もかなり歳をとってきて、そのざらりとした感触さえかなり楽しんで思い出すことができた。歳を重ねるということは必ずしも悪いことばかりではないということなのかもしれない。
 
 「ノルウェイの森」は1987年(昭和62年)の暮れに出版されている。「ノルウェイの森」の装丁は、単純赤と緑の2色。クリスマスを連想させる色遣いだが、発売日がクリスマスシーズンだったため、これは奥さんの発想だという話を何かで読んだ。初めてこの本を手にとった時、このはっきり言ってどぎつい装丁にはすごい違和感があって「これが本当に村上春樹の新刊なのだろうか」と思ったのを覚えている。そしてその内容も「鼠の小説には優れた点がふたつある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ」(「風の歌を聴け」)の精神からは究極にあるような内容で、今までの自らの小説の世界を自らぶち壊して自己の全てをさらけ出すような、これを書いたらもう後がないという内容で、正直、これで村上春樹も終わったなと思っていた。

 大学があまりにもつまらなくて、このまま就職して社会人かと思ったらたまらなくて、しばらくプー太郎(その頃はまだフリーターって言葉がなかった)をしていました。インドに旅行に行ってみたり下北沢にある劇団の研究生になってみたり、小説を書いて応募してみたり。3年くらい右往左往したけれどまったく芽さえ出ず、ああ俺には才能ってものがないんだなって痛いほど悟って仕方なく就職しました。その頃はまだバブルが続いていたから就職でもするかってノリでもなんとかなったんですよね。もっともその頃もっと頭を働かせて、もうひと頑張り勉強して公務員にでもなっていれば、今頃こんな苦労していない。ま、その程度の愚か者だったってことですけど。

 この本を読んだ頃は僕自身にとってかなり辛い時期だった。サラリーマンになったものの仕事なんて全然楽しくなくて、彼女もいない友達もいない、一人暮らしのボロアパートで読む「ノルウェイの森」の主人公の孤独はぎしぎしと心に染み込んできました。もっとも僕には直子も緑も玲子さんもいないわけで。主人公である僕と実際の僕がぴったりと重なり合ったような感覚の中、ただただ孤独に1988年を迎えていました。

 おかしいなと思ったのは年が明けてから。「ノルウェイの森」が物凄い勢いで売れてるらしい?社会現象にまでなっていった。そこここの書店のワゴンにあの緑と赤の本が山積みにされて、どこかの百貨店の壁面には緑と赤の垂れ幕まで下ろされる始末。テレビには「私、村上春樹の大ファンですぅ」なんて舌足らずの声で言う女が何人も現れ、村上春樹の文体をもっともらしく研究し、あるいは批判し、あるいはパロディ化した読み物がどの雑誌を開いても載っている。一体これはなんなんだと思っていた。まるで自分の心が世間に引きずり出されて、理不尽に辱められているような気さえしていました。

 1988年(昭和63年)がどんな年だったのか、ネットで検索して調べてみました。リクルートの「黒い株」譲渡で政界財界が大きく揺らいでいたのが第一のニュース。今の自民党の安部幹事長の父親がやはり自民党の幹事長の職にあって、秘書が関与したとして問題になっています。9月に昭和天皇の吐血、以後重態が続き、年の後半は日本全国が自粛ムード一色。そういえば井上陽水の「お元気ですか?」のCMが打ち切られたりして話題になっていた。ロス疑惑で三浦容疑者が逮捕。アメリカ大統領選挙でパパブッシュが選出されている。2月から8月にかけてイラン・イラク戦争。顔は好々爺だが鮫の眼を持つ竹下首相が、全市町村に一億円の交付税を配布するふるさと創生という前代未聞の愚案と抱き合わせに、消費税導入を柱とする税制改革6法案を可決成立させている。思想ゼロでシステムだけが隙間なく構築されていく時代の流れを代表する首相だったと今では思う。経済的にはまだバブル「高天原景気」が続いていて、外国の土地買い上げが目立っている。ソニーがVHSビデオの販売を発表したのがこの年。ビデオなんかある家のほうが珍しかった。流行語はペレストロイカ、しょうゆ顔にソース顔、オバタリアンに渋カジ。米アカデミー賞が「レインマン」、日本映画では「となりのトトロ」が公開されている。レコード大賞が光ゲンジの「パラダイス銀河」(大笑い)。この時代の雰囲気を現す読み物としては藤原新也の「乳の海」「平成幸福音頭」が秀逸だと思う。

 今にして思えば、その翌年に昭和天皇が崩御して昭和という時代が終わるのだけれど、その後のソ連崩壊から湾岸戦争へと向かう世界の流れ、日本ではバブル経済の崩壊、少年犯罪の多発、阪神大震災、オウム真理教…。何か昭和天皇の死が、それまで辛うじて押しとどめていた悪しき流れをまるで堤が決壊するように解き放ってしまった、そんな感じがする年だったんだな。

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