海辺のカフカ                                   

 村上さんの新作の題名が「海辺のカフカ」と聞いた時、僕は最近の村上さんの「アンダー・グラウンド」とか「辺境・近境」辺りのノン・フィクション系の活動、また「ねじまき鳥」からの流れからより社会的な外に向かった文章、三人称を多用したハード・ボイルドな文体とかっちりしたストーリー・テリングを予想していました。J・アービングの「ガープの世界」みたいな、今までの読者が引くような暴力的な小説をです。

 例えばこんなストーリー。主人公である僕が一時的な記憶喪失にかかった不思議な少女と出会う。彼女は実はある宗教団体に所属していて、彼女との関わりから僕は、オブザーバー的な存在としてその宗教団体にかかわっていく。北海道で集団生活をするその宗教団体の内部に入りこみ接するほど、この物質社会に振り回されることなく、まともな考え方をする人々に触れ、僕は今までの人生の中で初めて自分がいるべき場所を見出したような気持ちになっていく。しかし、その一方で初めは些細なものだった違和感が徐々に大きくなっていき、やがて教団の異常性に気づいていく…というような。実はこれは僕が20代の頃に書いた小説のストーリーです。オウムが社会的な現象になる前に書いていたから時代は先取りしていと思うのだけれど、いかんせん文章力が全然伴ってなくて、文芸誌の新人賞の一時予選すら通過しませんでした。トホホ。

 そんな話はともかく「海辺のカフカ」で主人公を15歳の少年に設定したのはコペルニクス的発想というか、村上さん、うまくやったなという感じでした。「風」の僕が大学生という設定で、そこからスタートして多少の前後はあったものの割と年齢的には順調に歳を重ねてきた主人公を、ここでさらに下の年齢までぐりんと引き下げたことによって、何かと生々しく対峙せざるをえないところまできた社会的事象をするりとうまくすり抜け、物語自体を超常現象的な村上氏得意のフィールドのまで引き寄せたという点で、これは実にうまいと思ったわけです。

 でもこれをもって、いつまでも成熟した大人になることを避けたピーターパン症候群なのかというと、そうとも言い切れない。いや、実際のところ、何だ村上さん、いつまでたってもピーターパンかよと、ついこの前までの僕なら思っていたところなんですけどね。しかしいわゆる成熟した大人たちが、日本という国をどういう事態まで持ってきてしまったかという現状を見れば、今の日本のお役人達やサラリーマン社会に、本当に成熟した大人という言葉が当てはまるのか、単に未熟な老害が闊歩する国なのではないかという見方もできるわけです。

 では何をもって成熟した大人の社会のモデルとするかという点において、村上さんの仮想ユートピアは「世界の終り」などでとっくに提示されていたんです。自然を相手にした、肉体を使った労働。高揚はないけれど公正を旨とする心の持ち様。夏を待ちわび、友人と飲み交わすビールを楽しみとする生活。記憶を大切にする、地に足をつけた静かな生活。それは「海辺のカフカ」においてもしっかり示されているわけで。

 しかしそれを現代の日本に住む我々に提示してもまったく魅力がない。支持されないのは目に見えてるわけです。なぜならそこにはもう限りなく膨張し続けるシステムが支配する世界だから。マスコミによって間断なく欲望を掻き立てられ、欲望に従ってニーズが生み出され、ニーズを満たすことによってさらに膨張を続ける高度資本主義経済社会。われわれはそんな世界に頭の先までどっぷりと使ってしまっているわけです。現代社会で発生するさまざまな社会問題は、そのほとんどがこのシステムから産み落とされているといっても過言ではない。オウムに引き寄せられていった若者達や、アメリカがイランを攻撃する理由までも。「海辺のカフカ」においてジョニ―・ウォーカーに象徴された邪悪な物体、あれは人間の欲望を両輪にして驀進しつづける高度資本主義経済社会というシステムが、生活の便利さと引き換えに生み出してきた現代社会の闇なのではないかと思うのです。

 2002年度における政府の一般会計に占める公債の割合は36.9パーセント。単純には言い切れないにしても、現状の生活を維持していくためには、全収入の40パーセント近くは借金していかなければならないという異常な状態。収入がないならば生活を切り詰めればよろしい。その当たり前の考えを私たち皆が持つことができるならば。例えば、テレビ番組のほとんどは本当に必要なのか?芸能人と称する低俗な連中のバカ騒ぎを何故眺めていなければならないのか。2チャンネルやエロサイトだらけのインターネットは本当に必要なのか?これほど頻繁にモデルチェンジする車って本当に必要なのか?高速道路って本当に必要なのか?セックスと暴力だらけの漫画雑誌は本当に必要なのか?誠意を手垢でべとべとにして貶めていく情報雑誌の類は本当に必要なのか?携帯やスカパーやいわゆるIT産業って本当に必要なのか?こんなにたくさんのファミレスやコンビニって本当に必要なのか?国政って本当に必要なのか?官僚って本当に必要な連中なのか?公団という特殊な団体が、何か我々に利益をもたらしているのだろうか。

 突き詰めて考えていくと、今ある第3次産業と国政のほとんどって不必要な気がしてくる。せいぜい都道府県レベルの自治体の連合体としての国家。官僚の腐敗(歴史上駄目になった国のほとんどはこれが原因だ)を徹底的に排した共産主義ってのが理想として見えてくるんだけど。ま、これは極論。

 でも今の日本ってこれからお隣の中国にあらゆる分野で飲み込まれていくのが目に見えてる。子供たちがどんどんヤワでバカになっている。大人の責任なんだけどね。かなうわけないんだ、あらゆる点で。そもそもバイタリティーで全然負ける。すぐお隣の韓国にさえも(この間のワールド・カップでよくわかった)。そのときにただただ貧しくなっていくか。貧相な顔の国民になっていくか、たとえボロは着てても精神社会は充実してるかというのではえらい違いだと思う。

 実は今の技術力とバブルの崩壊を通じてわれわれが獲得した分別を持って、1960年代、高度経済成長に突入する前の日本の生活レベルまで、我々が断固たる決意を持って後戻りできるならば、今日本が抱える問題の相当部分は解決できる。それ以外に今の日本が抱える、これから直面していかなければならない問題は解決できないのではないか。その精神のあり方っていうのを「海辺のカフカ」は掲示したのだと思う。ジョニ―・ウォーカーに対抗するカーネル・サンダースが象徴しているものは、我々の成熟した精神世界なのではないか。「海辺のカフカ」で佐伯さんが遺言のように残した台詞、「絵を見なさい」という言葉はそういう意味なんじゃないかと思ったわけです。

違うか?(笑)

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