2005.5.14更新
1996年から2001年の6年間、長男の属した少年サッカーチームの指導を携わって感想です。(2003.3.30)
- (1)指導方法の変化
1996年春、長男が小学校に入学しサッカークラブに入部するとともに少年サッカーの指導をお手伝いする「お父さんコーチ」になりました。チームに専任コーチがいるわけではなく、お父さん方が子供達を指導するということで同期の子供達のお父さん方と一緒に5名でコーチになりました。サッカーの経験者は私とIコーチだけ。Iコーチはまだ現役でプレーしていました。そこで私とIコーチを中心に長男の学年を担当するようになり、練習メニューを考えるのは主に私が担当しました。
クラブとしての標準的な練習メニューがあるわけではなく、各学年でメニューを作ることになっていました。そこで指導書を本屋で探してみましたが当時はまだ良い本が少なく、どのように子供達に接し、どんな練習をさせるか暗中模索、試行錯誤の連続でした。技術に関する本や大人向けや学生向けの戦術に関する本は「チャナディのサッカー」などいくつかありましたが、子供の指導に関する本はほとんどありませんでした。サッカーの指導とともに、子供達の躾についても自分の子供以外もおり、厳しくして良いか、甘えさせて良いか、少し悩みました。結局、どちらかと言えば厳しかったと思います。
サッカーの技術指導については、口で言ってもわからなかったり、一生懸命やろうとしてもできない子供がほとんどでした。
小学3年生の秋から冬にかけての平塚サッカー協会の指導者育成講習会でいろいろと学んだ結果、できないことをさせようとしていたと反省しています。子供の体力、筋力や骨格の強さを考えてメニューを考えるべきだったようです。ちょうどその頃に市販本の指導書が増え、日本サッカー協会の強化指導指針も入手でき、ようやくゴールデンエイジ、プレゴールデンエイジの指導について理解できるようになりました。
キック、ドリブル、トラップなどのボールを扱う「技術」、体の使い方やポジショニングなどの「センス」、ワンツーパスやフォーメーションなどの「戦術」を中心にし、体力やスピード、強さを優先しないようにしたのは、その頃からです。
また、「何やってんだよ!」と感情的なサイドコーチを避け、具体的な内容を言うように心掛けるようにしたのもこの頃です。
- (2)チームの編成と戦績
長男の学年には左利きの子供が多く、また攻撃型と守備型の子供がほぼ半々で、非常にバランスの取れた構成でした。特に、左利きが多いと試合にあたってのポジション決めや、練習メニューでも左右の偏りがなくなり、大変助かりました。
それ以上に、サッカーを好きな子供達が多く、うまくなりたいという子供達の意欲も感じられたのは助かります。いつもレベルアップを目指すことができました。
また、長男と同学年ばかりで我が家に遊びに来たり、練習後に一緒に風呂に入ったりした子供もおり、気心が知れ、良いところ・悪いところも理解できました。
とは言っても、強烈な個性を持つ自己中心的とも言える攻撃的なセンターフォワードがいませんでした。チームを引っ張るタイプの子供がいないので、仲間としてはまとまっていましたが、欲がないチームとも言えます。横浜や藤沢の強豪チームのようには勝利に意欲的な面がなく、人の良いのんびりしたチームカラーでした。
しかし、平塚市の旭地区の学年別では優勝を重ね、平塚市では3位、準優勝、優勝と上位を経験し、市内では強いチームになってくれました。しかし、県の大会レベルでは地区予選3回とも決勝に進出し、1回の地区優勝と2回の準優勝。平塚市を代表した郡市大会では1回戦で完敗。おかげで勝つ喜びと、敗れる悔しさを味わうことができました。コーチになった頃には、6年間で1回は平塚市で優勝したいと欲を持ってしまいましたが、現実のものとしてくれた子供達に感謝しています。
- (3)出会いと別れ
6年間には途中でチームに加入した子供、いろいろな事情や考えからチームを去った子供、いろいろな経験をさせてもらいました。サッカーが面白くないから、練習が厳しいから、練習に付いていけないから、もっと他のことをやりたいから、受験に備えたいから、親同士・子供同士の付合いがうかくないから、引っ越すから、・・・いろいろな出会いと別れがありました。
また、一緒にコーチをしていた方が病魔に襲われ他界されたことも忘れられません。テニスが上手で、スポーツを愛されていただけに残念です。喪中で息子さんが6年生最後の県選手権地区予選に参加できず、コーチの遺影とともに進んだ決勝で惜敗しました。長男が声を出して悔し涙を流していた光景を忘れられません。
いろいろな子供達・コーチ・父母兄弟の方々と出会って、思い出を作ることができた6年間でした。
- 「卒業後」(2005.5.14)
平塚市立旭小学校を卒業した長男たち15名が平塚市立旭陵中学校に進学した時は13名がサッカー部に進んでくれた。3年生まで全員が残ったわけではないが、ほとんどの子供たちがサッカーを続けてくれたことはコーチとして大きな喜びでした。
中学校のサッカー部の指導者である先生方が多忙であり支援を必要とするようになりました。コーチの同僚であるIコーチは市に登録して土日を中心に先生方と連携してサッカーの指導を継続してくれました。私も空いている日に何度か練習をサポートしたことがあります。2003年秋、平塚市中学生リーグでは応援を必要とした2試合の主審を担当し、中学生の試合に直接かかわり子供たちの対戦相手のサッカーのレベルを体験することができました。
2004年度の平塚市中学校選手権トーナメントでは、長男たちが出場した準決勝に小学生の練習後に駆けつけて大雨の中で観戦し、長男の決勝点を直接観ることができました。快晴の決勝戦は平塚市総合公園の芝生の競技場で行われ、結果は0:5の大敗でした。しかし、悔しそうではありましたが最後まで頑張った教え子たちの姿を見守ることができました。特に、決勝戦の対戦相手の山城中学校は小学生時代のライバルであった勝原SCとFC山下の合流チーム、ベスト4になった金旭中学校は松延SCと金田KSの合流チームであり、旭6地区のOBたちが大活躍してくれ大変嬉しい限りでした。
2005春に中学校を卒業してもう高校生。進学した高校はバラバラですが、これからも体も心も健康であり続けてくれることを祈り、子供たちを見守っていきたい。
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