旧東海道① 日本橋〜六郷川(多摩川)
ホームページ 開局6周年記念
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今回はHP開局6周年を記念して、Newsで報告した「旧東海道」を「日本橋」を起点とした道中に組み直して報告します。今回は「旧東海道① 日本橋→六郷川(多摩川)」、日本橋から東京都と神奈川県の境である多摩川(六郷川)」までをお送りします。
徳川幕府は「日本橋」を五街道(東海道/中山道/日光街道/奥州街道/甲州街道)の起点と定めたので、橋の中央が国内諸街道の元標とされたという。現在は橋の上を首都高速が走る残念な「日本橋」である(上左写真)。この高速は昭和39年(1964年)東京オリンピックの前年に架かったものだ。「日本橋」は慶長8年(1603年)にはじめて架けられた。現在の石造二連アーチ橋は明治44年(1911年)に完成したもので重要文化財となっている(上右写真)。
「日本橋」からスタートし、旧東海道を進んでゆく。振り返って見ると日本橋は高速の下に隠れているようだ(上左写真)。そして日本橋二丁目を過ぎた辺りに「平和の鐘」が見えてくる(上右写真)。その奥がJR「東京駅」八重洲口となる。
銀座二丁目、そこにあるのが「銀座発祥の地」と書かれた石碑(上左写真)。ここは「銀座役所跡」、慶長17年(1612年)徳川幕府が設置した「銀座役所(銀貨幣鋳造所)」である。この辺りは当時「新両替町」であったが通称で「銀座」と呼ばれ、明治2年(1869年)に「銀座」が正式名称となる。
そして銀座四丁目の交差点(上右写真)、そこの「和光本館(時計塔)」は懐かしいものである(実は私、銀座は約40年ぶり)。この時計塔、初代が明治27年(1894年)、現在の時計塔である二代目は昭和7年(1932年)に竣工。この時計塔の向かいにあるのが「三越」。この名前は「三井家」と創業時の「越後屋」からとり、明治37年(1904年)に「三越呉服店」と改称したもの。
日本橋三丁目、京橋二丁目と進んでゆくと「京橋」の親柱が現れる(上左写真)。「京橋」は、江戸時代から「日本橋」とともに有名な橋だったという。橋は昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られないが3本の親柱が残っている。1本の親柱には「きやうはし」と書かれていたが、道路の逆側の親柱には「京橋」と書かれている(上中写真)。この二本の親柱は明治8年(1875年)の石造の橋のもの。もう一つの親柱は大正11年(1922年)の橋のもので、石とコンクリート造で照明を備えたもの(上右写真)。
銀座四丁目から五-六-七-八丁目、600mほど進むと「新橋跡の親柱」が現れる(上左写真)。その手前、左へちょっと入った処に「芝口御門跡」がある(上右写真)。これがどういう関係なのかは次の通り。
宝永7年(1710年)橋の北詰に「芝口御門」という桝形門が設置され、橋名は旧名の「新橋」から「芝口橋」になった。享保9年(1724年)門が焼けて取り払われ、旧名の「新橋」にもどったらしい。明治32年 (1899年)、単アーチ鉄橋となり、大正14年(1925年)、同型のコンクリート橋に架け替えられ、昭和39年(1964年)、汐留川の埋立てに伴い橋は撤去されたという。上左写真はその橋の親柱。
JR「浜松町駅」を過ぎ、JR「田町駅」、その手前に「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見の地」という石碑が現れる(上左写真)。この石碑の文字は「西郷吉之助」、西郷隆盛の孫にあたる人物が記した。ここは明治維新の前夜、慶応4年(1868年)に「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡地。この会談によって「江戸無血開城」が決まり、江戸100万人を悲惨な火から守ったという素晴らしい出来事。
この屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜、石碑の下にある江戸時代の地図(上左写真の右下)を見れば、一番上の「松平・薩摩」と書かれた敷地の周りは海となっている。現在、そこにある山手線の線路と「田町駅」、当時は海の中。
JR「田町駅」を過ぎ、地下鉄の「泉岳寺駅」の手前の処に「高輪大木戸跡」がある(上右写真)。これは江戸時代の中期に建てられたもので(諸説あり)、江戸の南の入口として、道幅六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとしたらしい。写真は石垣と品川方面を撮ったもので、石垣の左側、当時は海。
そのちょっと先が「泉岳寺」(上左写真)。この寺は「赤穂事件」の「浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)」と「赤穂浪士」が葬られていることで有名。その墓は寺の中にある「義士墓入口の門」(上右写真)の向こう側にある。
「泉岳寺」から1.2km 、15分位で「品川駅」に到着する「品川駅」辺りは「高輪」という地名だが、それは海より眺めて高台の「縄手道(なわてみち:長い道)」から「高縄手(たかなわて)」と称されていたが、「高縄」から「高輪(たかなわ)」へと転じたという。先ほどのJR「田町駅」辺りからJR「品川駅」、線路の処は江戸時代、海の中であった。つまりこの東海道、その「高輪海岸」に沿って進んでいるのだ。
「品川駅」から南下し「八ツ山橋」(上左写真)を渡る。「八ツ山橋」は「ゴジラ」が上陸の第一歩を印した処。「八ツ山」という地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来している。橋は明治5年(1872年)の新橋〜横浜の鉄道開通に際して、東海道と線路を立体交差させた木造の橋、日本の「跨線橋(こせんきょう:鉄道の上に設けた橋)」第1号だそうである。
国道15号線を進んできたが、この「八ツ山橋」から旧東海道は細い道となる。旧東海道から1本海側の道に出て、昔の海岸を進んでゆくと「品川浦 船だまり」がある(上右写真)。現在は屋形船や釣り船が係留されているが、昔は魚を江戸城に納める漁村であったという。また海苔の主要な産地であったが、東京港建設のために昭和37年(1962年)に漁場権利を東京都に譲り渡して、品川周辺の海苔養殖は終了したという。今、周りは大きなビルが建ち並んで、ここが海だったことなど想像もできない。
旧東海道に戻り100mほど進むと品川区立の「品海公園」があり、その中に「日本橋より2里」と書かれた「品川宿」の碑がある(上左写真)。本来であれば一里塚のある処だが、この辺りに一里塚の痕跡は全くない。1752年(宝暦2年)刊行の「東海道分間絵図」に既に無くなっているという話があるので、江戸時代の中頃にはもう無かったかもしれない。残念なことである。
そこから200mほど先に「品川宿本陣碑」がある(上右写真)。品川宿は旧東海道の第一番目の宿駅として発達した処で、ここはその本陣跡。江戸時代、参勤交代の大名や公家などが宿泊した処。明治元年(1868年)の明治天皇の行幸(ぎょうこう:天皇の外出)のときの行在所(あんざいしょ:仮の御所)としても使われたことから、現在は「聖蹟公園」と命名されている。
そこから200m先に目黒川に架けられた「品川橋」がある。橋の手前を右折、川沿い50mほど進んだ処に「荏原神社」がある(上左写真)。この神社は和銅2年(709年)に創建されたもので品川宿の鎮守(ちんじゅ:鎮める(しずめる)神様)として尊ばれている。昔は「南の天王社」「品川貴船社」と称し、「水の神(龍神)を祀る神社である。6月の大祭「南の天王祭」では海中に神輿を繰り出している。江戸の頃から、神輿を担ぐ若衆の頭がさんばら髪(振り乱れた髪)になったのを見て「かっぱ祭り」と呼ばれるようになったという。
「品川橋」に戻り、橋を渡り振り向くと(上右写真)橋の上が庭園(写真の右側)になっているのに気がついた。旧東海道五十三次では、日本橋の次の本格的な橋がこの「品川橋」である。
この辺りの旧東海道は「品川宿場通り」であり、何となく良い雰囲気である(上左写真)。通りには懐かしい感じのお店もある(上右写真)。看板(青い看板)には「創業明治27年」と書かれている。この外観を維持してゆくのは大変なんでしょうなあ。
旧東海道「品川宿場通り」から「青物横丁商店街」、10分ほど歩いて「品川寺」に到着。この寺は「ほんせんじ」という(上左写真)。この寺は区内で一番古い寺で、大同年間(806年〜810年)に創建された。寺の入口には「江戸六地蔵」の一つが鎮座している。かつて江戸の入口6カ所に江戸六地蔵があり、これはその一つ。宝永5年(1708年)に造立されたもので高さ275cm、かなり大きい。寺の中にはいろいろと見るものがあるが、銀杏(いちょう)の木が大きくて見事(上右写真)。幹周り5.35m、樹高25m、なんと推定樹齢約600年、すごいものです。
「品川寺」から15分ほど旧東海道を進み、ちょっと左手に入ってゆくと、「坂本龍馬」が若い頃警備の任についていた土佐藩の屋敷跡、そこには「浜川砲台」が築かれており、復元された大砲が「新浜川公園」に設置されている(上左写真)。かつての砲台には8門の大砲があったらしい(一番大きかった大砲を復元)。この砲台は江戸末期、ぺリーの黒船来航防衛のために築かれたという。この公園の外側がかつての海(だから黒船へと向けた砲台があった)。
旧東海道に戻り、ちょっと進むと「浜川橋」に到着(上右写真)。この橋、元々は「泪(なみだ)橋」と呼ばれていた。かつてこの辺は海岸沿いの寂れた地で、この橋を渡って「鈴ヶ森の刑場」へと向かっていった。罪人にとってこの橋が、この世との最後の別れの場となったのでこんな名前が。江戸には「泪橋」は二つあったが(千住の刑場近くと、この品川)、橋が残っているのはここ、「浜川橋」と名を変えて残っている。
「泪橋」から8分くらい歩くと「鈴ヶ森刑場跡」(上左写真)。処刑された有名人には、慶安事件(1651年の幕府転覆事件)に関わった「丸橋忠弥」、恋人に会いたい一心で放火事件を起こした「八百屋 お七」などがいたと言われる。ここには、実際に使われていた磔台(はりつけだい)と火炙台(ひあぶりだい)が残っている(上右写真)。丸橋忠弥が処刑された磔台が左側、解説版には「真ん中の穴に角柱が立てられその上部に縛りつけて刺殺」と書かれ、八百屋 お七処刑の火炙台は右側、「真ん中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑」生きたまま焼き殺されたという解説が書かれている。なんか、寂しい話。
「鈴ヶ森刑場跡」から「15号線(第一京浜)」に出る。片側5車線のとても広い道であるが、江戸時代はこの辺、海岸に沿った街道である。京浜急行「大森海岸」駅の前を通り、「磐井神社」に到着(上左写真)。ここには旧東海道の旅人に利用されたという「磐井の井戸」があるらしい。神社の中を探したが見当たらない。神社の事務所で聞いてみたら、鳥居の外にあると教えてくれた。井戸は「15号線(第一京浜)」の歩道にヒッソリとあった(上右写真)。解説版を読んでみると、もとは神社の境内にあったが、国道の拡張で境域がせばめられたため歩道に出てしまったらしい。この井戸には「この水を飲む時、心正しければ清水、心 邪(よこしま)ならば塩水となる」という言い伝えがあるらしい。飲んでみたかった。
神社からちょっと先、15号線から左手の「美原通り(ミハラ通り)」を進む。ここが旧東海道(上左写真)。この通りには「撫愛荘(ぶあいそう)」という面白い名前の店があった(上右写真)。「無愛想」とは「愛想」がないことだが、ここは「愛」を「撫でる(なでる=かわいがる)」「荘(そう=みせ)」という面白い名前。ここは鯛焼き屋さんであった。
1kmほど続いた「美原通り(ミハラ通り)」は終了。広い路に出る直前の処には「旧東海道」と書かれた石碑があった(上左写真)。その先、また15号線を進むこととなる。後ろを振り返って見ると、左手「第一京浜」と右手「産業道路」が合流する交差点(上右写真)があり、その写真の右奥、青いトラックの後ろにあるのが、今通ってきた「美原通り」。
15号線を京浜急行の「大森町」駅、「梅屋敷」駅近辺を通過し1.2km、「聖蹟蒲田梅屋敷公園」(上左写真)に到着。「梅屋敷」とは文政年間(1818〜1830年)の始めに梅の名木を集めて開いた休み茶屋のこと。園内には復元された「里程標(りていひょう)」が設置されている(上右写真)。この石碑の下の方には「蒲田村 山本屋」と書かれている。昔、この「梅屋敷」の山本家の門の横にあったのがこの石碑らしい。
「梅屋敷」から「京急蒲田」駅、「雑色」駅と過ぎ2.5km、その先から15号線と平行するような旧東海道の路が現れる。その先すぐに左手に「六郷神社」と書かれた石碑と鳥居がある(上左写真)。その鳥居をくぐり進んでいくと「六郷神社」の社殿が現れる(上右写真)。
先ほどの鳥居からの参詣は、この社殿の横(先の右写真の左手)から入って来たのであり、社殿正面には立派な「神門」があった(上左写真)。こっちが正式な入口だろう。この神社は古い八幡宮であり、1057年(天喜5年)に源氏が創建したと伝えられている。源頼朝も1191年(建久元年)に社殿を造営したという。「神門」の前にあるのが「神橋」という太鼓橋、これは梶原景時(源義経と対立したとされた武将)の寄進と伝えられている。この神社で一番ユニークなのがこの狛犬(上右写真)。1685年(貞享2年)に子どもの安楽を祈って奉納されたモノらしいが、素朴でユーモラスな風貌である。
実はこの「六郷神社」の近辺に東海道の一里塚(六郷一里塚)があったはずだが、痕跡は全く残っていない。先にくぐった神社の鳥居の前に1836年(天保7年)に刊行された「江戸名所図会」と解説が書かれた神社と周辺の説明があり、その中に「脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里の一里塚と、その手前に高札場が描かれています」と書かれている。さっき通ってきた辺りに「六郷一里塚」はあったのだろう。
「六郷神社」から500mで「六郷川」(多摩川)」に到着。その橋「六郷橋」を渡れば神奈川県に入る。江戸時代に家康が架けた「六郷大橋」は洪水で流され、それ以降200年の間渡し船の時代が続いたという。1874年(明治7年)に木橋(有料)が架けられたが、その後も何回かの流失。近代的なコンクリート造りの「六郷橋」は1925年(大正14年)にでき、現在の橋は1984(昭和59年)に架け替えられたという。1910年(明治43年)の親柱は先ほど訪れた「六郷神社」に置かれている(上左写真)。1925年の橋門と親柱は、「六郷橋」の手前脇の公園に展示されている(上右写真)。
この1925年の橋門と親柱(先ほどの右写真)の向かい側に「北野天神」がある(上左写真)。鳥居の隣に「止め天神」と書かれた石碑があるが、それは江戸幕府の8代将軍「徳川吉宗」の馬が暴走した時に落馬を止めたことから「落馬止め天神」と称されたことが始まり。ここは天満宮であるから学問(入学)はもちろん、災い(わざわい)や痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する人が参拝するらしい。この神社には多摩川の「六郷の渡し」へと導く河原橋の踏み石もあり、「六郷の渡し跡」とされている(上右写真)。
6周年記念「旧東海道 日本橋→蒲田(六郷)」はこれにて終了。次回は「旧東海道②」、「川崎宿」→「武蔵国」と「相模国」の境をお送りする予定です(今回の旧東海道の日本橋〜蒲田(六郷)の対象となったニュース「旧東海道その17〜19」のアーカイブは削除しました)