旧東海道② 川崎宿〜武相国境

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 前回のHP6周年記念「旧東海道 日本橋→蒲田(六郷)」に引き続いて、今回は、「多摩川(六郷川)」を渡り、川崎宿からスタートし、「武蔵国(むさしのくに)」と「相模国(さがみのくに)」の国境の境までをお送りします。「武蔵国」とは飛鳥時代から明治時代初期までの日本の地理的区分「令制国(りょうせいこく)」、現在の埼玉県、東京都、神奈川県の川崎市と横浜市の国」。「相模国」は神奈川県、そして東海道は「駿河国(するがのくに)」=静岡県へとつながっていた。

 前回の道中の最終に訪れた「六郷の渡し跡」があった「北野天神」から「多摩川(六郷川)」(上左写真)を「六郷橋」で渡る。その橋の欄干には舟のオブジェがあり(上右写真)、橋に舟とは何となく面白い。この「六郷橋」を渡り東京都を後にして神奈川県に入ってゆく。


 橋を渡り神奈川県に入ると橋の袂に「明治天皇六郷渡御碑」がある(上左写真)。そこから国道15号線(第一京浜)の下を横断、700mくらい先に「東海道かわさき宿交流館」がある(上右写真)。これは4階建てのビルで、川崎宿の歴史や文化に関する色々な資料や展示物がある。5年ほど前に開館したらしいが、こんなに充実した場とは思っていなかった。


 この通りには「川崎宿の四百年に向けて」と書かれたキャンペーン旗が掛かっている(上左写真)。2023年に川崎宿は成立から400年を迎えるらしい。通りには「旧東海道」と彫られた石碑がある(上右写真)。

 JR「川崎駅」の直ぐ近くの交差点「砂子」を過ぎるとすぐに「旧東海道 いさご通り 川崎宿」という看板が出てくる。これは、旧東海道沿いの「いさご通り商店街」のPRであるようだ。「いさご通り街角ミュージック」という無料コンサートも行われている。その「いさご通り」を進むと「小土呂橋(こどろばし)」という大きな交差点に出る。その脇に「小土呂橋の親柱(擬宝珠)」がある(上左写真)。かつてこの通りには幅5mの川の流れがあり、そこに架けられた「小土呂橋」の欄干の親柱の部分が保存されている。「擬宝珠(ぎぼし)」とは、神社やお寺の手すりや橋の柱に設けられたネギの花に似た飾りのことである。

 「小土呂橋」から850m、京急本線の踏切の手前の処に「芭蕉の句碑」がある(上左写真:後ろに見えるのは京急の電車)。松尾芭蕉は1694年(元禄7年)、江戸から郷里への帰途、「川崎宿」に立ち寄り、門弟達との惜別の思いを「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句(この句碑に書かれている)にたくしたという。その年に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という有名な辞世の句を残して彼は亡くなるのである。それから130年ほど後に、彼の道跡を偲んで1830年(文政13年)、この句碑が建てられたという。


 踏切の処に京浜急行、JR南部線の「八丁畷(はっちょうなわて)駅」がある。この難しい漢字「畷(なわて)」とは「田んぼの間の道」のことで、そんな道が八丁(約870m)ほど続いていたので「八丁畷」と呼ばれていたらしい。踏切を渡り駅の裏側(西口の方)に進むと「無縁塚」がある(上右写真)。この「八丁畷」あたりでは江戸時代から戦後まで、多くの人骨が発見された。それは江戸時代の身元不明者が埋葬されたものと考え、1934年(昭和9年)に「慰霊塔」が建てられ「無縁塚」と呼ばれたという。


 「無縁塚」から約1km 、10分程歩くと一里塚が登場する「市場一里塚」である(上左写真)。明治初年までは道の両側に塚はあったが、ひとつが取り壊されて一方のみ残ったという。その塚も風雨にさらされ土が崩れ流されるので、地元有志が1950年(昭和25年)土止めをして補修したという。江戸時代の一里塚とは形は異なるが、跡地がしっかりと残っている一里塚である。


 「一里塚」から180m進むと「庚申堂」が現れる(上中写真)。これは「庚申信仰」に基づいて建立された仏堂で、このお堂の中に手が6本もある「青面金剛(しょうめんこんごう)」が祭られている(上右写真)。「青面金剛」は「夜叉(やしゃ)」という鬼神で、顔が青(緑)で怖いのが普通であるが、この石像の顔は削られて白く、何となく可愛い感じがする。

 「庚申堂」から200mほどで「鶴見川橋」(上左写真)。この「鶴見川橋」は1601年(慶長6年)ころ架けられたと言われており、東海道と同じ歴史を持つという。かつて橋の上から「大山」や「箱根連山」が見えたという。広重の東海道五十三次の浮世絵(川崎 生麦の里)には「富士山」も描かれているが、何も見えなかった。

 橋を渡ると左手に「鶴見橋関門旧跡」が現れる(上右写真)。この関門は、外国人に危害を加えることを防ぐために1860年(万延元年)に設けられた番所。その2年後に生麦事件が起こり、「川崎宿」から「保土ケ谷宿」の間に20カ所の見張り番所が設けられたという。

 この番所跡地から500m、旧東海道からちょっと奥に入ったところに横浜・川崎間の最古の神社とされる「鶴見神社」(上左写真)がある。本日は久しぶりの暑い日(30°)、神社横の日陰で休憩する。その境内の奥にあったのが「富士塚」、その頂に鎮座するのが「富士浅間神社」(上右写真)。「富士塚」とは、富士山に模した人工の小さな山で、江戸時代は「お富士さん」などと呼ばれ親しまれていたそう。

 「鶴見神社」から京急鶴見駅の脇を通過し、国道15号線(第一京浜)を横断、そして鶴見線の下(国道駅)を通過して1.8km、20分ほど歩いて、「道念稲荷神社」に到着(上左写真)。沢山の赤い鳥居が続く参道が印象的。この神社では「蛇も蚊も(じゃもかも)」という行事がユニーク。300年前、萱(かや)で作った蛇体に悪霊を閉じ込めて海に流した悪疫対策の行事だという。

 この神社から3分くらいで「生麦事件発生現場」(上右写真)に到着。今は住宅地となっており、事件解説の案内板が設置されている。

 この「生麦事件発生現場」から800m先、現場写真の奥に見えていた大きな高速道路(首都高速神奈川7号横浜北線)の下に「生麦事件之碑」がある(上左写真)。この歴史的な事件は江戸時代の末期、1862年(文久2年)に薩摩藩の行列に乱入してきた(日本語が分からず、行列の中を逆行してしまう)馬に乗ったイギリス人たちを藩士たちが殺傷したという事件。この事件処理は大きな政治問題となり、そのもつれから翌年、「薩英戦争」が起こったのである。


 そこから国道15号線(第一京浜)を進み350m先に「東子安一里塚」がある。全く跡地は存在しないが、2016年に案内板(上右写真)が設置されたらしい。この一里塚、神奈川県内に20カ所ある東海道一里塚で唯一、目印が無いために、「神奈川東海道ウオークガイドの会」の人たちが、江戸時代の絵図に基づいて場所特定したらしい。素晴らしいことである。


 その後、京浜急行の「新子安」駅、「子安」駅、「神奈川新町」駅と約2km歩いて、駅近くの公園にある「史跡 オランダ領事館跡」という石碑、その先約1kmに「熊野神社」(上左写真)。現在の社殿は戦後の再建であるが、写真の右奥に見えている「公孫樹(いちょう)」の木がすごい。「名木古木指定 御神木 大公孫樹」と墨で書かれた看板がある。樹齢は400年。


 そこから100m先に復元された「高札場」が現れる(上右写真)。間口約5m、高さ3.5m、奥行き1.5mと大きなものである。場所は「神奈川地区センター」の後ろの方にある。因みに「神奈川」という地名は鎌倉時代から存在したが、その由来としては「上無川(カミナシガワ)」の「ミ」と「シ」を略して「カナガワ」となったという説があるそう。

 「高札場」から5分ほど裏道を歩くと「神奈川の大井戸」がある(上左写真)。この井戸は江戸時代に東海道中の名井戸に数えられたという。この井戸は、水量の増減で翌日の天気を知ることができ、「お天気井戸」とも呼ばれたらしい。この井戸の直ぐ近くに「滝の川」と「滝ノ橋」、「本陣跡」がある(上右写真)。この「滝ノ橋」の脇に「高札場」(先ほど訪れたのは復元)があり、幕府の法度(はっと)や掟を庶民に徹底させたという。「滝の川」は何となく風情があるが、この先で暗渠化(水路に覆いをかけること)されていて、すぐに見えなくなってしまう。

 「大井戸」の近く、国道15号線(第一京浜)からちょっと裏通りに入っていくと「宗興寺」がある。ここは、1859年(安政6年)からアメリカ人宣教師で医者の「ヘボン博士」が診療所を開いていたところ。記念する石碑が院内にある(上左写真)。因みにヘボンさんは「ヘボン式ローマ字(シ:shi チ:chi などの日本語書き)」で有名、日本で最初の和英辞典を完成させたという。

 国道15号線(第一京浜)へと戻り、ちょっと進むと右手に現れる小径を300mほど進むと国道1号線(第二京浜)と合流、その先の「青木橋」を渡る(上右写真)。この道(青木橋)の下には「東海道線」「横浜線」「東急本線」が走っている。写真の右側にあるのは東急本線の「神奈川」駅、「神奈川宿」の名前を今でも残している。「神奈川宿」は日本橋から3番目の宿である。

 「青木橋」を渡った後、左折、ちょっと進んですぐに右折、また細い旧東海道となり、その100mほど先に「大綱金刀比羅(おおつなこんぴら)神社」(上左写真)がある。この神社は平安時代末期に創立。江戸時代には、神社前の街道両脇に「神奈川一里塚跡」が置かれていたという。

 そこから150mほど坂道を登ると「田中屋」が現れる。この「田中屋」の前に「神奈川宿」の解説版がある(上右写真)。そこに「田中屋」の歴史も書かれている。それによると1863年(文久3年)に創業された料亭で高杉晋作やハリスも訪れたと言う。なんと明治になって坂本龍馬の妻「おりょう」さんが働いたと言われる。この「田中屋」辺りはJR横浜駅から10分くらいの処である。

 旧東海道を150mほど進むと「神奈川台関門跡」が現れる(上左写真)。この辺りは「神奈川の台」と呼ばれた景勝の地だったらしい(石碑には「袖ヶ浦見晴所」と彫られている)。「関門」とは、1859年(安政6年)横浜が開港されると外国人の殺傷事件が相次いで発生。各国の領事からの非難を受けて幕府が設置した「関所」のこと。

 ここから650mほど進むと旧東海道は広い路と合流し、それが750m続き、交差点「浅間下」の先で右手の平行する路へと入り1.5km、相模鉄道「天王町」駅の下を通り、「天王町駅前公園」へと進む。ここには「旧帷子橋跡(きゅうかたびらばしあと)」(上右写真)がある。木製の灯籠、橋の再現らしく下は木製である。

 「旧帷子橋跡」から旧東海道は2つに分かれる。「古東海道」と呼ばれる路を進むと途中、「旧古町橋跡」という解説版があった。その解説によると「旧東海道」は1648年(慶安元年)に竣工されたもので、「保土ケ谷宿」ができたころ1601年(慶長6年)にはこっちの道(古東海道)だったらしい。そこを左折し古東海道を進むと交差点「神明社前」にお堂があった。その中には2基の庚申塔(こうしんとう)とお地蔵さまが見える。お堂の軒の下には見づらいが「庚申堂」と書かれた「扁額(へんがく:細長い額)」が掛かっている(上左写真)。「庚申塔」とは中国から伝来した「道教」に由来する「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔のことらしい。写真の右側の庚申塔には「元禄九年」(1696年)と刻んであるらしい(上右写真)。

 このお堂の隣に「道標」がある。そこには「相州道」、「古東海道」と刻まれている(上左写真)。あるHPによれば「この道標にある『古東海道』とは、江戸時代初期の慶安元年(1648年)に東海道の宿場町、現在に残る旧東海道程ヶ谷宿の道筋が整備され、真直ぐな街道になるまでの古い東海道を示しているようだ」と解説されていた。「相洲道」とは「大山道」「厚木道」「八王子道」の総称であるらしい。 

 そこから300mほどお寺さんの前を通り、そのお寺さんの駐車場にあった石碑には「古東海道」と記されていた(上右写真)。この「古東海道」は「古代東海道」、奈良、平安時代のものであり、時代によって変化したらしい。「古東海道」を進み「旧東海道」に出る。そこは「旧中橋跡(きゅうなかのはしあと)」であり、歴史説明版があるが橋の痕跡は全くない。

 そこから450m、「保土ヶ谷」駅の裏の方を通り、金沢・浦賀往還のへの出入り口にあたり通称「金沢横町」と呼ばれた処に到着。そこに道標として四基が建立され、現在も残っている。一番古いのが右から二番目の「かなさわ、かまくら道」と書かれたもの、1682年の建立である。


 旧東海道(201号線)を進み、その突き当たりが「保土ケ谷1丁目本陣跡前」という信号である。その信号の名前になったように「本陣跡」がここにある(上右写真)。今回の6周年記念「旧東海道」作成のために、この交差点をGoogle地図ストリートビューで確認してみると、なんと交差点信号の上にある地名看板には「保土ケ谷1丁目」とあり、「本陣跡前」がない。旧東海道ウオーキングでここを訪れたのは2018年、その時撮った写真には、「保土ケ谷1丁目本陣跡前」と書かれた看板が写っていた。現在、本陣跡は残っているが、「本陣跡前」は削除されてしまったようだ。

 その信号を右折し、国道1号線を500mほど進むと「保土ケ谷一里塚跡」がある(上左写真)。2003年に説明看板が設置されたが、それ以前は何も無かったらしい。ここは一里塚跡だけでなく、2009年に落成した「上方見附跡」のモニュメント(この石垣)もある。見附は実際には、「仙人橋」の向こうに見える「外川神社」(上写真右)の前にあったらしい。

 ここからの川沿いの歩道が始まる(上左写真)。この歩道と国道1号線の間には松が植わっている。後から調べると2007年に「保土ケ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会」が設立され、松並木や一里塚の復元を行ったらしい。昔の松並木は3kmあまり続き、広重や北斎の浮世絵に度々描かれたらしい。

 旧東海道は国道1号線から離れ800mほど進み、「元町ガード」という信号で突き当たり。そこを左折し100mほど進むと「元町橋ストアー」という看板を掲げた商店があり、その並びに「道祖神」らしきもの(上右写真)があった。この石像は腕が6本あり、鬼らしき者を踏んづけ、その下には三猿が彫られている。右側の石塔には「堅牢地神塔」、下の台には「元町講中」と彫られている。つまり、ここ「元町」の「講中(こうじゅう:神様を祭る団体の連中)」が造った「堅牢(けんろう:堅くてじょうぶ)」という名前の「地神(じしん:土地の神様)」の「塔」ということ(後から調べて分かった)。ここもGoogle地図ストリートビューで確認してみると、このストアはなくなっており、空き地の前に石像と「地神の塔」は残っていた。

 そしてその先すぐに旧東海道は右折し、急な坂を登ってゆく。これが「権太坂」である(上左写真)。「権太坂」は約1.5kmも続き、箱根につぐ難所とされ、「おいはぎ」が出たり、行き倒れも多かったらしい。その不慮の災難による死人を投げ込む井戸があったという。1961年(昭和36年)の宅地開発で多数の人間の人骨が発掘され、その旅人の霊を慰めようと碑が祀られたという。この「権太坂」という名前の由来は、旅人が地元の農民に坂の名前を尋ねたが、この耳の遠い老人は自分の名前を聞かれてと思い「権太」と答えたため、と言われている。


 この「権太坂」を登り切った処に「武相国境モニュメント」(上写真右)がある。木の柱に「武相国境之木」と書かれているように、ここは昔の「武蔵国」と「相模国」の境だったらしい。このすぐ後ろには「境木地蔵尊」(上写真中)がある。ここには、鎌倉の腰越海岸に流れ着いたお地蔵さまが境木が気に入ってその場に座り込んだという言い伝えがあるそうだ。境内にそそり立つ大ケヤキは武蔵国と相模国の国境を示すシンボルらしい。



 6周年記念「旧東海道②」、「多摩川(六郷川)」を渡り、川崎宿からスタートし、「武蔵国(むさしのくに)」と「相模国(さがみのくに)」の国境の境まではこれにて終了。次回は「旧東海道③」、「相模国」をお送りする予定です(今回の旧東海道の蒲田(六郷)〜の対象となったニュース「旧東海道その12〜16」のアーカイブは削除しました)


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