旧東海道 ⑩ 草薙〜府中〜丸子(まりこ)

 

復活 旧東海道 その28 草薙(くさなぎ)-府中(静岡)

2025年12月30日火曜日

 「旧東海道」ウオーキング、復活の第2弾。前回は「興津-草薙」11km、大変疲れたちょと長いウオーキング。今回は「草薙-府中(静岡)」+α の9.6kmウオーキング。


草薙神社

 日本武尊像/随身門

 御神木「大楠」


閻魔坂/旧東海道記念碑

古庄/長沼一里塚/曲金

府中宿東見附/伝馬町

 前回よりちょっとゆっくり9時32分二宮駅、そして熱海駅で乗換、草薙駅到着は11時22分、1時間50分ほどのJR旅でスタート地点へ。今回の+αは「草薙神社」の参拝。草薙駅から1.4km、20分ほど先にある神社。静岡出身の私、小学校2年生のときに遠足で行ったという記念写真が残されている(上左写真)。記憶は全くない。

 「草薙(くさなぎ)」駅から10分ほど海の方に行った公園の前に案内版(上右写真)があり、「日本平山頂 75分」「草薙神社 20分」と書かれている。「JR草薙駅 15分」と書かれた距離を10分で来たので神社には15分くらいで社に辿りつくと思った。

 案の定、15分で到着、でもちょと登坂。神社の入口には厳(いか)めしい鳥居が立っており、その隣に神社の由緒が書かれた案内版がある(上左写真)。それには「御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)」「御創建 景行天皇53年」と書かれている。景行天皇は「武尊」の父親で、この年は西暦123年である。「草薙(くさなぎ)」という名前にはこんな由来がある。

 「武尊」が東国の蝦夷を平定するために向かう途中、この地で逆賊よって、火を放たれ焼き殺されそうになる。その時、剣を抜いて「草を薙ぎ払い」、火を逆賊の方へなびかせて難を逃れた。そしてその剣を「草薙剣」と名付け、この神社に神剣として奉られたという。

 「日本武尊」は西暦72年に生まれ(生年不詳という説もあり)、死去は景行天皇43年(西暦113年)、近江の伊吹山の神に敗れて病となり、30歳で亡くなってしまったという。そして10年後、父親の景行天皇が「武尊」ゆかりの地の巡幸した際に神体として草薙剣をこの神社に奉納したのだ。鳥居の後ろの方に「日本武尊」の像があり、その横の階段を登ってゆく(上右写真)。「日本武尊」に関しては「古事記」と「日本書紀」に数多くの説話が書かれているが、内容に大きな差があるらしい。彼の陵墓は大阪、奈良、三重の3箇所もあるという。

 もうひとつ不思議な話。実は草薙駅のすぐ近くに大きな(高さ12m、幅16m)「一の鳥居」が1950年からあった。しかし、破損部分が確認され、撤去する必要が出て来た。その時、市の職員が鳥居の所有者を調べたが分からなかったという。撤去は2020年9月、ついこの間のことである。Googleマップのストリートビューにはまだこの鳥居が写っている(私は、現地に行くまで鳥居があるものと思っていた)。興味のある方は御覧下さい。

 階段を登ってゆくと右手に門が見えてくる(上左写真)。60年以上前に友人たちと一緒に記念写真を撮ったあの門である。後から調べたらこの門は「隨身門」という名前で、その奥に「本殿」が見えている。この「隨身(ずいじん)」とは平安時代以降の貴族警護の官人である。そして、神を守る者として安置される隨身姿の像(門の左右にある)も「隨身」、あるいは「隨神」、だから「隨身門」と呼ばれるらしい。

 この門の前の方には「御神木」の「大楠」がある(上右写真)。樹齢は1000年以上、樹高は15m以上、残念ながら樹の中は朽ちて外皮を残すのみとなっているが、枝葉は今でも元気である。「うねりながら龍のごとく天に張り出している」という表現をしたHPもあった。静岡市指定天然記念物である。

 「草薙神社」から草薙駅の方に戻る。前回報告した「旧東海道 興津-草薙」、その狸がいた「草薙一里塚」から片側2車線の大きな県道407号が旧東海道であったが、この「草薙駅入口」という交差点から、その脇の方に旧東海道がある。住宅の間の道で昔の街道というイメージはない。そこを進んでゆくと「閻王寺(えんのうじ)と閻魔坂(えんまさか)」という解説版があった。それによると、かつてここには「閻魔大王」をご本尊とする「閻王寺」があったという。江戸時代には、この寺の門の前の東海道を「閻魔坂」といい、傾斜が急なため馬から落ちて怪我をする人の多い東海道の難所といわれたという。住職が安全を願って「閻魔大王像」の胎内仏を後ろ向きにして法要を行ったところ事故はなくなったらしい(上左写真)。

 この「閻魔坂」の先から、県道407号沿いにある美味しいラーメン屋さん(ネットで調べておいた)に行くが、超満員で残念ながら中止。どうも旧東海道のラーメン屋トラブルが、我が故郷である静岡で多い。旧東海道へと戻り、進んでゆく。この先の旧東海道には「東海道」と「松」が書かれた案内版?が出てくる(上右写真)。やっと出て来た案内の看板、標識である。

 「閻魔坂」から15分。1.2kmほど進むと「草薙総合運動場」の近くへ。この運動場は野球場から陸上競技場や球技場、体育館からプール、テニスコートまである大きな運動場。そのちょっと先のJR線路の脇に「旧東海道記念碑」がある(上左写真)。この辺りは「栗原」という所であるが、国鉄操車場の建設や区画整理によって旧東海道の西側が分断され消滅したという。その「栗原」の歴史を後世に伝えるためにこの記念碑が建てられたとその由来が記されている。

 ここは、旧東海道がなくなった所であるが、この記念碑の手前の歩道に東海道の案内版?が現れ、右折してトンネルを潜るという道を示している(上右写真)。

 このトンネル(北村地下道)は、車が1台しか通れない(中に待避所あり)。中から変なクラクションの音や自転車のベルが聞こえてくる。静岡鉄道の「静岡清水線」、JRの「東海道本線」、「東海道新幹線」、この3つの線路の下を通って線路の向こう側へ進む。


 線路の向こう側では、東海道の案内版?がまた現れ、この階段を登って旧東海道を進むことになる(上左写真)。その後、線路沿い(上右写真)を5分ほど進むと「古庄(ふるしょう)」と書かれた道標が出てくる(上右写真)。

 旧東海道はそこから5分の「古庄」という交差点で1号線と合流し、その後すぐに「長沼(ながぬま)」という交差点から1号線を離れた脇道へと進む。そこから5分で「長沼一里塚跡」に到着。残念ながら石碑だけが残っているのみ(上左写真)。

 その後、近くのラーメン屋さんに入り13時過ぎの昼食。とても美味しいラーメンであったのでトラブル解消。そこから10分ほど歩き、「護国神社」を右手に見ながら1号線と合流(上右写真)。

 1号線を進むもまた5分。「柚木(ゆのき)」という交差点で左折し、1号線から離れる。交差点には1号線の標識があり、日本橋から179kmであった。左折後、またJR線の下のトンネルを潜り(上左写真)、ここにも東海道の案内版?があり(上右写真)、その先の階段を登る。案内版、ありがたいことである、なければ迷ったかも。

 階段を登って右折、その先すぐの処に「曲金(まがりかね)」と書かれた道標(上左写真)。そこから10分くらい歩くとまたトンネル(上右写真)。手前の上が新幹線、その奥が東海道線、車は一方通行、その脇を進んでゆく。

 トンネルを抜けるとすぐに1号線との交差点「春日1丁目」、その脇に「府中宿 東見附」の道標がある(上左写真)。その説明版によれば、江戸時代、「府中宿」は上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場(とんやば;伝馬・人足の継立てを差配する施設)、旅籠が43軒もある東海道最大規模の宿場だったという。ここは平安時代からの古い地名「横田」であり、駿府城下町に入るための東の入口(東見附)が置かれた場所である。旧東海道はすぐに1号線と離れ、「伝馬町(てんまちょう)通り」となる(上右写真)。

 伝馬町通り(旧東海道)を10分ほど進んで行くと「府中宿」の道標が出てくる(上左写真)。「府中宿」は江戸から44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場である。そして5分、交差点「伝馬町」(上右写真)を右折してJR「静岡」」駅へ。

 今回のウオーキングは「草薙神社」への+αを含めた3時間、約9.6km、今回も大変に疲れた。前回と同様に静岡駅で30分ほど休んで、今回は静岡発14:57の東海道新幹線で小田原駅へ。そこで乗り換えて二宮駅16:03到着。前回予想したように帰りは新幹線の使用であった。次回からは往復新幹線を使用するようになりそう・・・。

旧東海道 その29 府中−丸子(まりこ)

 「旧東海道」ウオーキング、復活とNewsしたのが昨年の12月(前回の復活第1弾は9ヶ月ぶりの復活だった)、「コロナ」と私の「座骨神経痛」が原因で、また半年以上が過ぎてしまった。暖かくなり、腰の痛みが無くなったので久々の復活である。

 今回は静岡の「府中」〜「丸子(まりこ)」、我が故郷の旧東海道である。まずはJR東海道線「二宮駅」から「小田原駅」、そこで新幹線に乗り換えて45分、「静岡駅」へ到着。前回の最終地点「府中宿」の「伝馬町」交差点から再開。

伝馬町/府中宿

呉服町/札之辻

七間町/撮影機

一里塚/由比正雪 

安倍川餅/安倍川

丸子宿/一里塚

丁子屋/高札場

 静岡駅から徒歩5分、前回の最終地点「伝馬町」の交差点へ(上左写真)。ここから「旧東海道」ウオーキング復活スタート。すぐに「府中宿」の石碑と遭遇(上中写真)。そしてそのちょっと先の右手に「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」が現れる(上右写真)。ここは、幕末に江戸に向けて進発した「西郷隆盛」に会うために旧幕臣の「山岡鉄舟」が「勝海舟」の手紙を携えで駿府に到着し、会談を行った場所。この会談は、後の「西郷・勝会談」につながり「江戸城無血開城」の素地をつくったという。そういえば江戸の旧東海道、現在のJR「浜松町」駅と「田町」駅の間に「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見の地」という石碑があった。その前座の会談がここで行われたのだ。

 その先の交差点「江川町」を左折し、その先の交差点「呉服町」を右折して呉服町通りへと入ってゆく(上左写真)。この通りは多くの商店が店を構え、私の小さいころは「街に行く」とはこの辺りの店を見て回ることだった。

 呉服町通りを進み、「七間町(しちけんちょう)」通りと交差する処で左折する( 上右写真)。その交差点には「札之辻(ふだのつじ)址」という石碑が立っている(昔はなかったと思う)。ここは駿府町奉行所により「四ツ辻(四つ角)」に幕府の高札場が設けられ、「札の辻」と呼ばれたらしい。江戸時代から昭和20年までここには「札之辻町」があったらしい(次に写真あり)。 

 「呉服町通り」ほどではないが「七間町通り」も昔から商店が並んでいた。現在は一方通行であり、自転車道が設けられ、何となく良い感じの通りとなった(上左写真)。そういえば昔、この通りに映画館があったよなあ〜と思い出して歩いていると「撮影機」が現れた。後から調べてみるとこの辺りは「七ブラシネマ通り」と呼ばれ、鎌倉市の「松竹大船撮影所」で実際に使われた撮影機の展示らしい。この辺には1897年(明治30年)に静岡県で初めての活動写真(映画)を上映した「若竹座」があった。私の小さなころここには映画館8館が七間町にあったという。

 七間町の途中で右折しそして、ちょと進んで今度は左折(上左写真)。そのまま進むと「東海道」のマークがある道を進む(上中写真)と「府中一里塚」が現れるはずであるが、旧東海道とは違う処に移っているという(理由は不明)。旧東海道の横の広い道(208号線)にその「一里塚址」があった(上右写真)。残念ながらこの「一里塚」も石碑だけである。「塚」と「木」が残っていた一里塚は1年半前に訪れた富士川を渡った先の「岩淵一里塚」であった。それからは全くない。

 旧東海道に戻り10分ほど進むと208号線と合流する地点に到着。そこにある「弥勒緑地」という小さな公園の中に「由比正雪公」の墓址がある(上左写真)。この「由比正雪」は江戸時代の軍学者で浪人を助けるための「慶安事件」と言われるクーデターを計画するが、駿府の旅籠で捕り方に包囲されて自刃(じじん)したという。富士山の眺望が素晴らしかった旧東海道の「薩埵(さった)峠」、その手前の「由比宿」にあった「正雪紺屋(しょうせつこうや)」が生家と伝えられているが、駿府宮ヶ崎(静岡の浅間神社辺り)の生まれという説もある。

 この墓址の先で旧東海道と208号線が合流する(上右写真:正面奥に安倍川橋が見える。左手の店が「安倍川餅」の店、その隣の木立の処が「義夫の碑」)

 この安倍川餅の店「石部屋(せきべや)」は古い店である(上左写真)。創業は1804年(文化元年)、昔ながらの製法を守り続ける老舗である。その先にも古い安倍川餅の店「かごや」がある。こちらは創業100年経つと言われている。私の小さなころからこの二つの店は有名であった。残念ながら「かごや」は店を開いていなかった。営業は日曜日中心の不定期のようだ。私の小さな頃、どちらの店の安倍川餅を食べたのだろうか・・・。

 この店の隣に「安倍川の義夫(ぎふ)の碑」がある(上右写真)。ここには安倍川の川越人夫「喜兵衛」の美談がある。江戸時代(1738年)、自力で安倍川を渡った旅人が着物を脱ぐ際に大金(150両)が入った財布を落とした。喜兵衛がそれを拾い、旅人を追いかけて財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとするが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって礼金を受け取らない。旅人は駿府町奉行所に礼金を届けた。町奉行が「喜兵衛」を呼び出しても受け取らない。町奉行は旅人に礼金を返し、代わりに「 喜兵衛」 にほうび金を渡したという話である。昭和4年(1929),旅人の出身である和歌山県と静岡県の学童や有志の人びとの募金によってこの碑が建てられたという。我が故郷、静岡のよい話。

 「安倍川橋」、全長409m、1871年(明治4年)の川の流量が少ない秋冬期に使用する木製の仮橋が始まりで「安水橋」、1923年(大正12年)に鉄橋となり「安倍川橋」と改称。我が故郷であるがこの橋を歩いて渡るのは初めて。左側に立派な歩道がついている(上左写真)。「安倍川橋」を渡り、街道を1kmほど進む(上右写真)。この樹木の先にあるラーメン屋さんで昼食。


 昼食後、そのちょっと先の交差点「手越原」で国道1号線と合流、そのまま250mほど進み交差点「佐渡(さわたり)」で左折し「丸子(まりこ)」へと進む(上左写真)。500mほど先に「東海道松並木」が現れる(上右写真)。並木といっても名残の松、1本であった。昔は「安倍川橋」の辺りから「丸子宿」の入口まで松並木が続いていたらしい。

 そのちょっと先に「丸子宿」の碑が出現(上左写真)。碑には「府中宿」から21町(2.8km)、次の「岡部宿」まで2里と書いてあった。その600mほど先に「一里塚址」。残念ながらここも石碑のみ。

 そこから500m、小さな「水神社」がある(上左写真)。階段を登って神社に行くと、その左手に「丸子川」が流れていた。この神社の階段の処に「丸子宿」の説明板があり、ここが「見付」を通って「丸子宿」に入って来た処で、この先に「本陣」や「旅籠」などがあったと記されていた。進んでゆくと復元された「旅籠」のような建物があった(上右写真)。

 そして古い店(しらい酒店)があり(上左写真)、その先には「本陣址」の石碑が出てくる(上右写真)。

 そして広重の東海道53次「鞠子」の浮世絵(このNewsページの最初の写真)に描かれたいた名物茶屋「丁子屋(ちょうじや)」に到着(上左写真)。このお茶屋の創業は1596年で、それから現在まで場所を変えずに営業している。創業当時はお茶屋であったが、現在は「とろろ汁」で有名な店。この辺りには広重が描いた時代から何軒かの「とろろ汁」の店があったらしい。

 その「丁子屋」の前の「丸子橋」を渡ると「高札場」に出る。此処にある「高札」には、徳川五代将軍綱吉が建てたと言われる貴重な資料の3枚のレプリカがある(上右写真)。

 そして「高札場」から旧東海道を900mほど進み「二軒家」という交差点。ここは広い国道1号線で地下道を通って向かい側のバス停へ。8.1km,2時間30分の復活旧東海道ウオーキング終了。20分ほどバスを待ち、30分ほどかけて「静岡」駅。その後、新幹線→東海道線、ウオーキング終了から2時間30分で「二宮」駅。まあ、移動時間の長いウオーキングであった。

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