旧東海道 ⑬ 金谷〜日坂〜掛川

 

金谷坂石畳/すべらず地蔵

諏訪原城/菊川坂石畳

菊川宿/青木坂(箭置坂)

久延寺/扉屋/佐夜鹿一里塚

鎧塚/夜泣石跡/二の曲り

日坂宿/ことのまま八幡宮

塩井神社/伊達方一里塚

大頭龍神社/六道地蔵

馬喰橋/葛川一里塚/掛川宿

もちや/七曲り/本陣跡

掛川城

 四足門/天守閣/御殿

 

 「旧東海道」ウオーキング、 今回は静岡の「金谷宿」から「日坂宿」そして「掛川宿」である。今回は「金谷坂」の石畳み(登り)、「菊川坂」の石畳み(降り)、そして箱根峠・鈴鹿峠とともに東海道三大難所と云われた「小夜の中山峠(さよのなかやまとうげ)」、大変な旧東海道である。

 旧東海道は城址からすぐに広めの道(234号線)を横断し、「菊川坂」下り口へと入ってゆく(上左写真)。この「菊川坂」の「石畳」は最初の611mは復元されたもの(平成13年)。先ほど登った「金谷坂」の「石畳」とは違い楽だろうと思ったら大間違い。大きな石の何処に足を持って行くか、急な下り坂を踏ん張ることも大変(上中写真)。途中、小さな落ちた花びらが石畳一面に広がり、右手奥には茶畑という風情ある情景(上左写真)。いろいろと楽しませてもらうが、だんだん足が筋肉痛になりそうなウォーキング。


 そこから5分、350mほど歩くと「諏訪原城ビジターセンター」が現れる(上左写真)。 この城は「武田流築城術を駆使した壮大な山城」と言われ、天正元年(1573年)に武田氏が「遠江(とおとうみ:静岡県西部)」侵略の拠点として築城。「外堀」と言われる大きな横堀がある)。その先に「三日月堀」、そして遠くに復元された「二の曲輪(くるわ)北馬出(きたうまだし)の門」が見えている(上右写真)。じっくりと城址を眺める時間がないので、チラッと見て、旧東海道へと戻る。

 JR「金谷駅」からすぐの鉄道下トンネル、前回の「島田〜金谷」の最後の「金谷一里塚跡」があった処(上左上写真)。そこからトンネルで「金谷駅」の裏側に出て、急な坂を登ってゆく。比較的広い道(473号線)と交差し、そこに「旧東海道石畳入口」という看板があり(上左下写真)そこからまた急な坂道が始まっている。その坂を登ってゆくと「旧東海道金谷坂」「石畳上り口」という入口が現れる(上右写真)。

 かなり急な坂、石畳みの石が結構大きくて歩きづらい。そして「すべらず地蔵尊」という赤い旗が現れる(上左写真)。そしてこの右手奥に「すべらず地蔵尊」がある(上右上写真)ここの「石畳み」は「すべらない」ということを意味した比較的新しい(平成になってから)もの。この「石畳」は430mつづき出口へと出る(上右下写真)。

 そして「江戸時代後期の石畳」という案内板が出てくる(上左写真)。ここからの161mは江戸時代のものとなり、やっと出口にたどり着く(上右写真)。161m+611m、そして最初の「金谷坂」の430m、「金谷峠」を越える1km以上の石畳だったのだ。「石畳」は意外と歩きづらい道だったが、ある人は「山石を使った石畳には大軍の進軍を遅らせるという幕府の深謀があったと想像される」と解説していた。

 そして「間(あい)の宿」「菊川」へと到着。。この「間の宿」とは本宿と本宿の中間にある休憩の場所。普通2つの宿の距離は3〜4里であるが、「金谷宿」とこれから向かう「日坂宿」の間はかなり短いが急所難所が続くので特別に「菊川」が置かれたという。そんな解説版があったのは「間の宿 菊川の里会館」の広場のまえ(上右写真)。ということは、やっと終了した難所「石畳」、その次の急所難所にこれから進んでゆく〜。

 「菊川」の里を過ぎると「青木坂(箭置坂)」入口に到着(上中写真)。先に見える階段を登り、ちょっと曲がった坂道を進むと、ものすごく急な坂道が現れる(上右写真)。写真ではそんなに急に見えないが、実際は大変な坂。ちょっと登っては「は〜は〜、ぜ〜ぜ〜」、何と峠の頂上(久延寺)まで急な登り坂1km以上、東海道三大難所と云われた「小夜の中山峠」なのである。「菊川の里」から「日坂の里」へと進んでゆく。

「小夜の中山」の「茶畑」を眺めながら急坂を何とか進んでゆく。「小夜(さよ)」って何なんだと思いながら登ったが、後から調べてみると「小夜」は「佐夜」と同じ、掛川市の「佐夜鹿(さよしか)」に位置する峠だからそう呼ばれているらしい。そして、やっとのことで頂上にある「久延寺」に到着(上左写真)。そのちょっと先に「扇屋」という茶店がある(上右写真)。かつては「久延寺」の周辺に旅人相手の茶屋が20軒ほどあったらしい。今では約300年も続いたこの1軒のみであり、建物は江戸後期の物、「子育て飴」が名物である。現在では営業は土日祝日のみ、残念ながら開いていなかった。

「扇屋」の前は「中山公園」となっており「西行歌碑」が立っている(上左写真)。この歌は「年たけて また越ゆべしとおもひきや 命なりけり さやの中山」。西行の晩年、69歳の作らしい。なんとなくその気分が解るような感じ。その300m先に「佐夜鹿(小夜の中山)一里塚」がある(上右写真)。

 「一里塚」から300mほど進むと「鎧塚」がある(上左写真)。これは江戸時代ではなく建武2年(1335年)北条一族の武士(名越太郎邦時)がここで足利一族の武士(今川頼国)と戦って壮絶な討ち死にをしたらしい(建武の乱)。その彼(邦時)の武勇をたたえて頼国が塚をつくって葬ったという。この辺りから左右に茶畑の急な坂を降ってゆく(上中写真)。

 「鎧塚」から1.3km、15分ほど下ってゆくと「夜泣石跡」という石柱と解説版が出現する(上右上写真)。解説版には次のように書かれている。「妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る」。この「現在の位置」とは、ここ(江戸時代に本当にあった処)から遠く離れた国道1号線沿いの場所(6km以上東)である。この「夜泣石」は歌川広重の「東海道五十三次 日坂」にも描かれている。ちょうど「夜泣石跡」のちょっと先にその浮世絵版画のレプリカが置かれていた(上右下写真)。この絵の中央にあるのがその「夜泣石」である。江戸時代の旅人が興味深く眺めているのである。この「妊婦」は山賊に殺されてしまったが、赤ちゃんは村人に助けられ、飴で育てられたらしい。それが先ほどの「子育て飴」というこの地の名物になったという。

 「夜泣石跡」から10分くらい(700m)ほど坂道を下ってゆくと「二の曲り」「沓掛」という急なカーブが出てくる(上左写真)。写真では表せないほどの坂道、足元を注意しないと転びそうな道、登りだったらどうしよう、さすが東海道三大難所「小夜の中山峠」である。

 「二の曲り」から「日坂高架橋(国道1号線)」の下をくぐり到着したのが「日坂宿(にっさかしゅく)」。これは「本陣跡」(上左写真)。「日坂宿」は「品川宿」から数えて25番目の宿らしい。

 その先にあるのが「川坂屋」(上左写真)。ここは江戸時代の面影を残す建物らしい。平日は残念ながら開館していなかった(開館していても坂道登り下りで疲れて入らなかっただろう)。そして宿の端辺りに「高札場」がある(上右写真)。

 そこから5分ほど歩いて「事任(ことのまま)八幡宮」に到着。「太鼓橋」(上左上写真)を渡り神宮へと進む。この神宮、ビックリしたのが「拝殿」前の「大楠」(上左下写真)。樹齢は5〜600年らしい。そして「本殿」の横には「大杉」(上中写真)。「大杉様」と呼ばれ、この千年杉の前でお祈りすると天に届くとされているらしい。

 これにて今回の旧東海道金谷-日坂ウオーキングは終了。「事任(ことのまま)八幡宮」のバス停で、なんと1日8本(2時間に1本)の運行しかないバスを待ち、20分くらいでJR掛川駅に。そして東海道新幹線1時間で小田原駅、そして二宮駅である。次回は掛川駅からこの1日8本のバスで「事任(ことのまま)八幡宮」へ行って出発。新幹線で掛川駅下車、5分後にバスがスタート。ちょっと不安である。

「旧東海道」ウオーキング、 今回は「掛川駅」の前から2時間に1便しかないバスに乗り(新幹線が駅に到着の6分後スタート)20分、「ことのまま八幡宮」で下車し、そこからスタートである。

 「八幡宮」からは、バスで来た道(415号線)をひたすら「掛川」へと向かう。15分ほど歩くと「222.3km」の標識。なんと「江戸」から200km以上も歩いてきたのだ(上左写真)。この先の歩道橋に掲示されている左の方への脇道(菊川方面250号)へと入って行く。その脇道へと入る処の左手に「塩井神社」と書かれた鳥居があった(上左写真)。その解説版によると、大化の改新があった645年頃に出現し「潮河(うしおか)明神」と言われていたらしい。川の中に潮泉が湧き出る「塩井」があったらしい。

 そこから500mほど進むと「伊達方一里塚」(上左写真)。これは江戸日本橋から57番目の一里塚。明治の33年頃に取り壊されたらしい。その向かいには「大頭龍神社」(上右写真)。「大頭龍神社」は菊川市の神社が大きく、ここの神社は小さいが、何となく雰囲気はある。

 200mほど進んで415号線と合流。その200m先に脇道、そこを200m進むと「六道地蔵」がある(上左写真)。「六道」とは「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」である。そこからまた、200mほど歩くと415号線と合流。さらに25分、2kmほど進むとまた左手に脇道が現れる(上右写真)。

 その脇道の入口の樹木の処に「馬頭観音」がある(上左写真)。先ほど25分も歩き続けた415号線(旧東海道)には何もなかったが、この脇道の旧東海道には可愛らしい石像があったりする(上中写真)。この旧東海道を15分ほど、1.3km進むと「逆川」、その「馬喰(ばくろう)橋」を渡る。橋の欄干(らんかん)には馬をデザインした洒落たものがあった(上右写真)。


 そして橋を渡った左手に「葛川一里塚」がある(上左写真)。これは江戸日本橋から58番目の一里塚。そして右手には「東海道掛川宿 名物 振袖餅 もちや」という創業約200年の茶店があり、ここから「掛川宿」となる。(上中写真はその石碑、上右写真は「もちや」の看板:写真撮り忘れのため、Googleマップから転載)。

「もちや」から4分ほど進むと「東海道七曲」と書かれた看板が出て来た(上左写真)。左手に見えている道でなく、完全に左折し、ちょっと進むとまた看板がある(上中写真)。 そこを右折し、正面にある「秋葉常夜灯」(上右写真)を左折。

 その後右折、そして左折、そうして「七曲り」の解説版がでてくる(上左写真)。「七曲り」とは「容易に敵を進入させないための構造」と説明されていた。700mの「七曲り」が終了し(上右写真)、真っ直ぐ300mほど進むと掛川宿の「本陣跡」に到着、今回の旧東海道ウォーキングは終了。約7.6km、2時間であった。そして番外の「掛川城」巡りを行う。


 「本陣跡」から120mほど歩くと「大手門」(上左写真)。これは1995年(平成7年)に復元されたもの。門の奥に見えているのが「番所」。城内に出入りする者はここで調べられたという。嘉永の大地震(1854年)で倒壊したが、1859年(安政6年)に再現された。その先「逆川」があり(堀のようだった)それに沿って進む。 そして「緑橋」に出て、堀のような「逆川」を渡ると、左手に城下に時を知らせる大太鼓が納められていた「太鼓櫓」、その奥に「天守閣」が見えてくる。その後、左手にある「四足門」(上右写真)をくぐって城内へと入る。

 すると立派な「天守閣」が見えてくる(上左上写真)。掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成っている。天守閣本体は、6間×5間(約12m×10m)であり、中の急な階段を登って上へと進む。天守から外を臨むと「掛川城御殿」が下に見える(上右写真)。「掛川城御殿」は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設だという。

 「天守閣」から出て、城の脇道を進む。何となく良い風景、記念写真を撮ってしまった)。そして先ほど「天守閣」から見た「御殿」へと入る。そして「御殿」から見える庭とそびえる「天守閣」(上左下写真)。


 その後、掛川城の周辺の施設を巡って「掛川」駅へ。そこから新幹線こだま号で1時間、小田原駅到着、早いもんです。日坂〜掛川7.6kmの旧東海道ウォーキング+掛川城巡り、終了です。


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