旧東海道 ⑭ 掛川〜袋井〜見附宿
旧東海道 ⑭ 掛川〜袋井〜見附宿
十九首塚/大池一里塚跡
松並木/冨士浅間宮赤鳥居
久津部一里塚/松並木
東海道どまん中茶屋
袋井宿本陣/木原一里塚
木原畷(なわて)古戦場
らん塔のお地蔵さん
許彌神社/二子塚古墳
遠州鈴ヶ森刑場
阿多子山一里塚/見附宿
国分寺/府八幡宮
「旧東海道」ウオーキング、 今回は静岡の「掛川宿」から「袋井宿」である。今回のウオーキング、なんと前日に突然の「梅雨明け」、予想される気温が32°くらい、そして歩く距離が12km、熱中症や筋肉痛で、途中リタイアの可能性がある。前回と同様に「小田原駅」から新幹線に乗り換えて1時間で「掛川駅」。そこからスタートである。
「掛川駅」から掛川城の方へ5分ほど歩き、交差点「連雀西」を左折。とても熱い、日陰が少ない。途中、「掛川城蕗(ふき)の門」(上左写真)など面白そうな処があるが、とても見学する余裕はない。900mほど10分歩き、脇道へと入る。 その脇道へ入り200mほどで今回の第一ポイントがある(上右写真)。
ちょっと進んで右折、公民館の先を右折、ちょっと分かりづらい処にあるのが「十九首塚」である(上左写真)。この首塚の由来は「平将門」の首級を祀るものらしい。この平将門は反乱が有名(天慶の乱)、そして滅ぼされる。勝利した朝廷の「藤原秀郷」が将門とその家臣、十九人の首級をもって京へと向かい、この掛川で京都から来た検視の勅使と出会う。この近くの小川で首を洗い、橋に掛けて検視を受けることとなる。その後「秀郷」は、将門は逆臣であるがちゃんと供養しようとし、十九の首を別々に埋葬したという(土地開発で場所は移動したらしい)。そこへ到着した私は、とにかく日陰へと入り、水分を補給し、一息ついた。この首塚の「由来」はこの首塚の横に解説版があり、そこで撮った写真で今、初めて呼んだ。余裕のないウオーキングである。
「首塚」から250mで広い道と合流し、200mで「逆川」を渡り「二瀬川」交差点を左折。500mほどで「倉真川」に架かる「大池橋」を渡る(上右写真)。かつてここには常夜灯で有名な「秋葉神社」の「一ノ鳥居」があり、その手前で旧東海道は左に曲がり、直進が「秋葉街道」の始まりとなる。しかし「秋葉山」までは九里(約35km)もあり、随分遠くにある「一ノ鳥居」である。この鳥居は1780年(安永9年)、江戸の豪商によって寄進されたものであるが、残念ながらこの鳥居は明治24年に撤去。
そこから、道にちょっとしかない日陰を巡りながら約1km、15分くらい、照り込む日光との闘いの末、何とか「大池一里塚跡」に到着する(上左写真)。あるのは看板だけで、後ろはお寺さん。しかしその先に「松並木」が見えてくる。今回はこの「松並木」が多い街道なのである。一里塚の200m先から松並木が始まる(上右上写真)。しかしすぐに松並木は途切れてしまう。暑い道をひたすら1.5km、20分ほど進み(途中、国道1号線広い道の下を潜って脇道へ)、「垂木川」を渡って右手に「善光寺」(上右下写真)。涼しそうな処であるが、時間に余裕なく、先へと進む。
そしてすぐに日陰のある松並木が始まる(上左上写真)。日陰のある街道を350m、5分で松並木終了。そこに案内板があり「松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです」と書かれていた(上右写真)。岡津は「善光寺」の処、原川はこの辺り、もう松並木は終了なのか。
そこから500mほど進み1号線と合流。「同心橋」を渡る。橋の終わりには「袋井市」という看板がある。掛川宿から袋井宿へと進む。その橋を渡り、左手の細い道を降りてゆくと小さな「花茣蓙(はなござ)公園」がある(上左下写真)。木陰のベンチ、綺麗なトイレ、まあ、兎に角、休憩。
休憩後、300mほど進むと、変な籠のようなモノが出てくる(上左写真)。そこには浮世絵と「名栗の花茣蓙」の案内文が書かれている。それによると、この辺りが「名栗」、かつては茶屋や名物の「花ござ」を売る店が軒を連ねていたという。後からネットで調べたら、この写真の小屋(籠)は自治会で使用するゴミの保管庫であるそうだ。そしてその先、待望の「松並木」再開である(上右写真)。
この松並木、何と1kmも続き、15分も木陰のある街道を楽しく歩くこととなる。途中に赤い鳥居が出てくる(上左上写真)。この鳥居は「冨士浅間宮赤鳥居」といい、江戸時代にはここから遠くの神宮の社殿を見通すことができたという。今は国道、東名高速、工場がたくさん有り、全く見えない。
松並木が終了し、400mほど進むと小学校、何とその校庭の一部に「久津部一里塚跡」がある(上左下写真)。この一里塚は江戸からちょうど60里、明治時代には老松が立っていたという。昭和47年にこの小学校(袋井東小学校)創立100年を記念して塚が復元されたという(上右写真)。
「一里塚」から800m、10分ほど進むとまた「松並木」が出てくる。今回は松並木の街道が多く、暑さ対策に役立っている。松並木をしばらく歩くと右手に「七ツ森神社」が現れる(上左上写真)。この「七ツ森」というのは田園に残る7基の塚のことを言うらしい。桓武天皇の頃(780〜806年)に出没していた怪鳥を退治しようとした七人の武士が逆に殺されてしまったのだ。村人がそれを哀れんで墓を築いたという伝説がある。そして境内には樹高15mの「シイノキ」(樹齢200〜299)がある(上右写真)。根元からすぐに枝分かれし、迫力がある。
「七ツ森神社」に入って奥へと進むと、旧東海道と平行して走る1号線に出る。そのすぐ先ににあるラーメンショップ(旧東海道の昼食はラーメンが多い)を予定していたが、暑さでラーメンを食べる気になれない。その近くのコンビニでサンドイッチと牛乳を購入し、旧東海道に戻り、松並木の木陰で昼食を取ることとした。その近くには松並木の解説版がいろいろある(上左下写真)。
「松並木」が終了し、ちょっと進むと旧東海道は1号線と合流。次の信号で左折、そしてすぐに右折して5分ほど進むと「袋井市市役所」、そこを左折し、すぐに右折。曲がりくねった道を進むと、そこに「袋井宿と天橋」の案内板がある(上左写真)。それによれば「袋井宿」は1616年(元和2年)に設置、この先の「天橋(阿麻橋)」は袋井宿の東の入り口の土橋だという。その「東橋」の向こうにあるのが「東海道どまん中茶屋」である(上右写真)。この茶屋は、歌川広重が描いた東海道五十三次袋井宿「出茶屋ノ図」を再現した休憩スポット。「どまん中」とは袋井宿が東西どちらから数えても27番目に位置することからきているという(袋井どまんなか運動)。そうか、ここで旧東海道の半分に到着したのか・・・(でも、まだ半分)。
茶屋から300mほど進むと右手に「袋井宿東本陣」(上左写真)。その斜向かい左手に「袋井宿場公園」(上右写真)が現れる。公園には「此処は どまん中袋井宿」と書かれた袋井宿の地図の案内板があり、その後ろに芝生の公園が広がっている。
公園から250m、宇刈川に架かる「御幸橋」(上左写真)、その手前に「袋井宿西見附跡」がある。そこには「袋井宿高札場」が復元されている(上右写真)。この橋を渡りちょっと進んだ処までが袋井宿であるが、今回はここで終了。ここからJR「袋井」駅までは1kmほどある。暑い12kmのウオーキング、あと少し・・・。
12km以上のウオーキング、過去の記録を調べてみた。第1位:2019年11月「片浜〜吉原」12.5km、第2位:2020年1月「吉原〜富士川」12.4km、第3位:2019年5月「三島〜片浜」12km、そして今回の「掛川〜袋井」となる」。全て旧東海道である。因みに第5位は2016年11月、「東京タワー〜日比谷公園〜江戸城〜上野」11.8kmというウオーキングであった。
久しぶりの「旧東海道」ウオーキング、前回は6月28日、掛川-袋井12km、気温は32°という大変なウオーキングであった。それから3ヶ月の旧東海道ウオーキングの夏休み。涼しくなった今回は、静岡の「袋井宿」へ。「袋井駅」から約1km、12分ほど歩いて前回の最終地、「御幸橋」へ。橋を渡り500mちょっと進むと右手に「寺澤家長屋門」(上左写真)。その先10分ほど歩くと旧東海道は右手の脇道となり、そこを進んでゆくと一里塚がある(上右写真)。この日本橋から61番目の「木原一里塚」は復元されたモノ(平成11年復元)。実際はここから60mほど東(手前)にあった(そこには現在「木原一里塚跡」書かれた案内の柱が立っている)。
一里塚から旧東海道を離れ、右手の細い道を400mほど進み「木原畷(なわて)古戦場」へと寄り道。ここは「木原」という所の「畷(なわて)」=「たんぼ道」の古戦場である(上左写真)。この辺りで戦国時代、徳川家康と武田勝頼の合戦の場となったらしい。武田軍3万5千に対して徳川軍1万、かなりの軍勢の差があったらしい。
写真の処には墓地らしいものがあるが、そこには「らん塔のお地蔵さん」がある(上右写真)(上左写真の小さな小屋の中)。「らん塔のお地蔵さん」とは「笹田源吾の墓」のこと。武田方は徳川方の情勢を探るため、笹田源吾を偵察に出したが討たれた。家康はこの手柄をたいへん喜んだという。その後、平和な時代となったが、村には疫病や災害などの悪いことが続いた。これらの災難は笹田源吾や武田と徳川の戦いにより戦没した人々の悪霊の祟りだという噂がおこり、地蔵が建てられた。この地蔵は現在でも丸野家の子孫の方々によって四百年間大切に祭られている。「らん塔」とは「卵塔」、卵形の塔身をのせた墓石。卵形の塔身の代わりに地蔵さんを乗せたのだろう。左側の地蔵は2019年に子孫が建立したもの。
旧東海道へと戻り、一里塚からちょっと
進むと右手に「許禰(こね)神社」がある
(上左写真)。この神社は、かつては
「木原権現社」と呼ばれ、古代末期に創建されたらしい。和歌山の熊野山と深い関係にあったという。入口の左には「徳川家康公腰掛石」(「古戦場 木原畷」と書かれた石が立っている処:写真の左端)があり、私も腰をかけてきた。武田と戦っているときに休んだ石と思っていたが、関ヶ原の戦い勝利の祈願に来たときに腰をかけたらしい。その後ろにあるのが「大楠」(上中写真)。幹周7.4m、樹高15m、下の方は崩れかけているが、すごい大木であった。
脇道だった旧東海道は県道413号線と合流し、ちょっと進むと磐田市。そこから10分ほど歩いて「太田川」の「三ヶ野橋」を渡る。橋を渡り、「太田川」の土手から草に埋もれた階段で下の道へ降り、複雑な旧東海道の小径を進むと、ちょっとした松並木(上右写真)、その先に小さな山と坂道がある。
坂道の手前に「←鎌倉時代の古道」という道標があり、
坂道を登って行くと「大正の道」「明治の道」の道標、
その先に「江戸の古道」の道標(上左写真:左手への矢印)がある。この江戸の道を上って「大日堂」へと進む(上右写真)。
ここは「大日堂古墳」という円墳であると同時に「大日堂古戦場」でもある(上左写真)。先の「木原畷(なわて)古戦場」と同じ武田と徳川の合戦の場である。下の平野が見渡せる重要な陣地であった。
「大日堂」から山を下り、旧東海道から左手に入ると「二子塚古墳」という前方後円墳がある(上右写真)。墳長55m、後円部径30m、墳丘高さ3m、5世紀末頃に築造らしい。古墳から旧東海道へ戻り1km、、旧東海道から413号線へ出て、ラーメン屋さんで昼食。
昼食後、旧東海道に戻り「行人坂」を登る(上左写真)。ここは「行人(山伏)」が多く住んでいて村の祭りや行事に携わっていたので名前がそうなったらしい。
そして413号線と合流し、すぐ先に「遠州鈴ヶ森刑場」がある(上右写真)。この刑場では大盗賊である「日本左衛門」の首がここで晒されたという。日本左衛門は実在の人物で、遠州金谷の生れで、美濃から相模の八か国で、5~60人の盗賊団を率いて暴れまわっていた。江戸の火付け盗賊改め方に捕えられて、江戸で斬首されこの地に運ばれたらしい・・・という説明を事前に調べたので、何があるか楽しみに急な階段を登って上に行ってみたが、何とそこには・・・。
「記 此処は刑場跡ではない。 見付刑場跡は、昭和31年・・・国道1号線改良工事により道路傍下に埋没された・・・。見付 本立山玄妙寺」という看板(説明版)があった。何ということか。せめて階段の下に・・・。
その先150m進み、また脇道に入る。5分ほど進むと「秋葉常夜灯」(上左写真)。そしてその後、急な下り坂が始まる。この坂道を降ってゆくと左右に「阿多子山一里塚(北・南)」があることになっているが、全く解りづらい。右側に北の一里塚があるらしいが立入禁止と聞いていた。近くのアパートの階段をちょっと登らしてもらい、そこから塚らしい処を撮影(上左写真)。
そして坂を下まで降り、「愛宕神社」の階段を登ることとなる
(上左写真)。急な階段を登ると、また階段。上まで上がると
「愛宕神社」の後ろに一里塚が見えている。
これが「阿多子山一里塚(南)」である(上右写真)。上まで登って写真を撮り、塚を降りて行くとき北を見ると,先ほどの塚らしいモノが見えていた。これが「阿多子山一里塚(北)」なのだ。しかしどうして,こんな二つの一里塚の配置なのだろうか、不思議だった。
旧東海道は「愛宕神社」の下で広い道と合流(上左写真)。600mほど進むと「見附宿」の看板と休憩所。その奥に「旧見附学校」(上右写真)。これは明治8年(1875年)落成の日本現存最古の「擬洋風木造小学校」だという。
この辺りの旧東海道は「見付宿場通り」と現在は呼ばれ、「見附宿本陣跡」もあった(上左写真)。そこから300m先で旧東海道は左折する。その交差点には「これより姫街道」と書かれた道標がある(上右写真)。調べたら「姫街道」とは「見附宿」から「浜名湖」の北側を迂回する東海道の脇往還(脇街道)らしい。そのまま、まっすぐ行けば、浜名湖の北側を通る東海道となるのだ。
この「見附追分」を左折し、10分ほど進んでゆくと右手に「遠江国分寺跡」が出てくる(上左写真)。建物の後ろの広い跡地には「金堂」を中心に「講堂」「中門」「回廊」「七重の塔」があったらしい。
「国分寺」の前には「府八幡宮」がある(上右写真)。天平年間(729-748年)に設置されたという。「本殿」は江戸時代の元和3年(1617年)、「拝殿」「楼門」は寛永12年(1635年)の造営という。
この「府八幡宮」から10分ほど進み「磐田駅」前直前の交差点で旧東海道は右折する。そのまま直進し100mで「磐田駅」に到着(上左写真)。駅前に変なモニュメントがある。何だろうと思ったが、HP作成の写真を整理していた今、解った。これはかつて「国分寺」にあった「七重の塔」のモニュメントだ。調べたら平成28年(2016年)の制作の高さ8.5mのステンレス製と解った。
駅前にはもうひとつ凄いものがある。それが「大楠」である(上右写真)。「許禰(こね)神社」にも「大楠」があったが、こちらは高さ17m、樹齢700年のものらしい。この木の下で着替え、休憩してから駅へ。3ヶ月の旧東海道行ブランク、本日の距離9.4km、大変に疲れ、筋肉痛のウオーキングであったが、楽しかった。駅前のコンビニで缶ビールを仕入れ、駅のホームへ・・・。