旧東海道 ⑯ 浜松宿〜舞阪〜新居町
旧東海道 ⑯ 浜松宿〜舞阪〜新居町
上海キッチン/鎧橋/若林一里塚/二つ御堂/八幡神社/巨大タコ
熊野神社/神明宮/篠原一里塚/
稲荷神社/東本徳寺/西本徳寺
春日神社/長池松並木
舞阪宿松並木/波小僧/見付石垣/舞阪一里塚/宝珠院/岐佐神社
本陣跡/脇本陣/渡船場跡/弁天島
弁天神社/鳥居/中浜名橋/西浜名橋
新居町/
「旧東海道」ウオーキング、今回は「浜松宿」から「舞阪」11.5kmである。そしてその後、「舞阪」から「浜名湖」を渡り「新居町」6.1km、そして「浜松城」リベンジ2kmである。
JR「浜松駅」から「駅南大通り」を進み10分くらい、旧東海道(257号線)へと出る。そこに面白い建物があった(上左写真)。「上海キッチン」という名の中華料理店で古い蔵をリフォームした店らしい。壁の横の菱形の看板、何という言葉か解らなかったが、ネットで調べたら「福」という字の逆さまと解った。なるほど。でも何故か? さらに調べてみたら中国の古くから伝わる風習で、横浜中華街で良く見られるらしい。中国語の「福逆さま」-「福倒了」と「福が来る」-「福到了」が同じ発音だったかららしい。なるほど。
ここから旧東海道を進む。5分くらい歩いて左手に東海道線が見える処、その標識には「舞阪11km」と書かれている(上右写真)。本日のウオーキングの終点までまだ11㎞もあるのだ。
そして「長池松並木」。ここから旧東海道らしい街道が始まる
旧東海道1.9km、30分ほど進んでゆくと「鎧橋(よろいばし)」にでる(左写真)。小さな橋であるが、平安時代末期に「比叡山の僧兵」と戦ったこの辺りの軍兵が水田に水を張り、鎧を着てこの橋を守ったらしい。この闘いの両方の戦死者1000人をこの橋の北側に葬って「千塚(または血塚)」と言ったらしい。 ・・・ という案内版を読んでいると、その向こうの岸に鳥が居たので記念写真(右写真)。
その250m先には「若林一里塚」(石碑のみ)、その先150mには「二つ御堂」、左手(左写真)と右手(右写真)、二つあるお堂、左手が「薬師堂」、右手が「阿弥陀堂」、1125年頃建立。
その「阿弥陀堂」隣の奥にある「八幡神社」(左写真)。その中に面白いものを発見、怪物だ(右上写真)。神社のこの部分は「児童遊園」となっており、タコのすべり台だったのだ(右下写真)。
そのちょっと先に街道松が出てくる(左写真)。でも「舞阪10km」という標識。ウソだ〜と思いながら、所々松の街道を進む 2km、25分くらい進むと「熊野神社」(右写真)。この神社の横にもタコ怪物がいた。そしてその先の昼食予定ラーメン屋に行くが休業、その近くにあると調べておいた予備のラーメン屋も休業。昼食延期となる。1km、12分くらい歩いてコンビニ発見。店の中に食べるコーナーなし、外の駐車場にも座る処なし、しょうがなく駐車場の端っこの地べたに座って昼食。
昼食後5分ほど、500m歩いて旧東海道は257号線から右の方へと分岐し、そこから600mで「神明宮」(左写真)。ここには普通のすべり台があったが、タコ怪物は居なかった。
この辺りの街道には何となく古そうな家が並んでいた(右写真)。旧東海道の跡には解説看板のみ。「篠原一里塚跡」も民家の庭に設置した看板のみ。ちょっと残念な感じ。
一里塚跡から25分、2kmほど進むと「稲荷神社」、そののちょっと先に「高札場跡」(左写真)。「高札場」とは「高札(板の札)」を掲示した処。写真の建物ではない。この建物の中には石の灯籠が入っている。その写真、左手の一番奥に白い石碑があり、「史蹟 引佐山大悲院観音堂聖跡」と書かれていた。1021年作の高さ38cmの菩薩像があった処。江戸時代に東海道を往来する人に利益があったらしい。
そして1km、10分ほどで「春日神社」(右写真)。今回の旧東海道ウオーキングでは神社がかなり多かった。この最後の神社の面白いことは、社殿の前の「神使(神のつかい)」がなんと「狛犬」でなく「狛鹿」であったこと。お稲荷さんは「狐」だが、調べてみると「猿」「鳩」「烏」「鼠」など沢山あるらしい。そういえば2021年の「長瀞行」、その時登った「宝登山」(途中までロープウェイ)、その「宝登山神社」の「奥宮」は「オオカミ」だったのを思い出した(下左2鹿/下右2オオカミ)。
橋を渡り、振り返ってJR東海道本線の橋と浜名湖を眺める(左写真)。遠くの山の方に「富士山」があるはずと思って見てもよく分からない。取りあえず、カメラを望遠にして3枚ほど撮ってみた。そして後に見てみるとちゃんと1枚写っていた(右写真)。
舞阪駅からちょっと歩いて「舞阪宿松並木」の始まりである。こんな長そうな松並木は「掛川〜袋井」の旧東海道36(2022.6.28実施、12km、気温32度、その後3ヶ月旧東海道ウオーク夏休み)、その時の1km松並木以来のものである。後から調べると距離700m、道路の左右の松が続き、途中「灯籠」があったりして良い感じである(左写真)。
街道の左手の歩道には東海道の宿毎の石碑が続き、「舞阪宿」の処では大きな石碑の解説版(右写真)があり、「舞阪宿は江戸日本橋から67里(264.9キロ)、品川宿から数えて30番目の宿である」と書かれていた。
松並木の終わりに面白い「波小僧」の石像がある(左写真)。これは太鼓をたたいて天気を知らせる妖怪である。西から聞こえれば天気は良くなり、極端に東なら荒れるらしい。この波小僧は昔、網に引っ掛かっていたところを漁師に助けられ、それ以来天気の変わり目を知らせたらしい。実際は「遠州」の人たちが「海鳴り」の聞こえる方向から天候を予測したのだそうだ。1996年に環境庁が「残したい日本の音風景100選」に認定したという。この「波小僧」の先の交差点「新町」で旧東海道は301号線と交差するが、左手の方へと続いてゆく。200mほど進むと「見付石垣」が表れる(右写真)。この辺りは「舞阪宿」の東はずれであり、見付は見張所、番人が人馬の出入りの監視をしたという。
そのちょっと先左手に「舞阪一里塚」の跡がある(左写真)。手前にあるのが「新町 常夜灯」。1809年(文化6年)の元旦に「舞阪宿」の大火事があり、その後「秋葉信仰(火伏の神の信仰)」による常夜灯を建て、火の用心としたという。1815年(文化12年)正月に建立されたという。
「一里塚」から400m、5分ほど進むと左手に「宝殊院」がある(右写真)。「秋葉神社」という「幟(のぼり)」が目立つが、これは「秋葉信仰(火伏の神の信仰)」によるもの。このお寺は、1876年(明治6年)、舞阪町に初めて小学校が開かれた場所。
その隣(といっても、ちょっと先から回り込んで入る)に「岐佐(きさ)神社」(左写真)。この神社、平安時代の書物に記されており、その後、津波に流され1574年(天正2年)に本殿が再建されたという(中写真)。その横には「赤猪石(あかいし)」、古事記に登場する「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を大やけどさせた岩である(右写真)。「山の上から猪を降ろすから捕らえよ」と騙して真っ赤に焼いた岩を落とされたらしい。その後ろの木は「縁結びの木」。「榎(えのき)」と「槇(まき)」が根元で結び合っている木。
神社から300mほど進むと右手に「本陣跡」の石碑(上左写真)。左手に「脇本陣」(上右写真)。この「脇本陣」、建物が遺構として残ったのは旧東海道で唯一らしい。中に入ることも出来たが、先を急ぐのでちょっと覗いただけ。
その先で右折し100mほど進むと「渡船場跡」。
ここで旧東海道は一度終了、ここから「新居宿」までの
1里半、船を便りとして渡ることになる(上左写真)。旧東海道37(袋井〜見附宿)で出会った「姫街道」(旧東海道はこの街道の始まりを左折し現在のJR「磐田駅」の方へ)を進んでゆけば「浜名湖」北側を迂回することができたのだ。その石碑には「北雁木(きたがんげ)」と書かれているが、「雁木」とは階段状になっている船着き場のこと(上右写真)。
旧東海道は終了したが、「弁天橋」を渡って「弁天島」へ。その手前にあった大きな灯籠とその奥に見える赤い鳥居(上左写真)。そして「弁天島」の「辨天(べんてん)神社」(上右写真)。1708年(宝永5年)に渡し船の安全を祈願して「辨財天」を歓請したのが始まりで、島の名前の由来となったという。
その神社の脇を通って海岸へと出る。青空、海と鳥居、そして1号線、風は強かったが綺麗な景色(左写真)。思わず記念写真。この鳥居は海の中にあるが、潮が引くと砂浜が出てくるらしい。鳥居の高さは18m、昭和48年に造られた観光シンボルタワー。
海岸をちょっと歩き、次なる「中浜名橋」へ(右写真)。どうやって橋の上に出るのかと思っていたが、橋の下に「地下道」があった。車用の橋と平行した歩行者用の橋があり)、250m橋を渡り、それから陸地800m、10分くらい歩いて今度は500mの「西浜名橋」。