旧東海道 ⑱ 二川〜 吉田(豊橋)〜国府
旧東海道 ⑱ 二川〜 吉田(豊橋)〜国府
伊良胡阿志両神社道/クロマツ跡
ヤマモモ/飯村一里塚跡
秋葉常夜灯/吉田宿東惣門跡
吉田城本丸跡/吉田宿本陣跡
吉田西惣門/湊神神社
湊築島辨天社/白魚句碑/とよはし
聖眼寺/爪郷遺跡/歩道なし道/
子だが橋碑/伊奈村立場茶屋跡
伊奈一里塚跡/薬師寺
「旧東海道」ウオーキング、今回は新幹線で豊橋駅、そして東海道線で「二川駅」へと戻り、スタート。そして2回目は新幹線で「豊橋駅」、そこから路面電車で「吉田宿」の中心へと向かう
「二川駅」(左写真)からスタートし「吉田宿」へと向かう。「吉田宿」は明治に「豊橋」となっている。駅からチョット進むと「伊良胡阿志両神社道」と書かれた道標が立っている(右写真)。後から調べると、渥美半島の先端の伊良胡岬の近くにある「伊良胡神社」と「阿志神社」へと通じる渥美奥郡道の分岐点にあったものらしい。
チョットした坂道を進み、1.2km 先の信号で右折、そのまま900mほど進んでゆくと新しい小さな松並木が始まり(左写真)、その先に「クロマツ跡」の石碑が現れる(中写真)。石碑の下は花壇となっているが、大きなクロマツの根っ子の部分が残っていたらしい。石碑の横には昭和33年頃の街道の写真がある(右写真)。記録によれば高さ11m、幹周2.34m、樹齢約150年だったらしい。
そこから進んでゆくと右手に大きな樹が現れる(左写真)。この樹の後ろに解説版があり、それによるとこの樹は「ヤマモモ」。かつて旅人の疲れを癒す二軒の茶屋があり、その1軒が山桃の木を植えたらしい。今から350年ほど前の話。さらに1.2kmほど進むと国道1号線と合流し、その端っこに「飯村 一里塚跡」の石碑があった(右写真)。
1号線と合流した旧東海道は2.5kmほど続く。前回の4kmよりも短く、途中面白いモノと出会った。まず三重の塔がある「寿泉禅寺」(左写真)。物置の壁に書かれた浮世絵の美容室看板(右写真)」、楽しませてもらった。
豊橋の路面電車「豊鉄市内線」の「東八町」駅近く横断歩道を渡り、大きな「秋葉山常夜灯」を見学(左写真)。この常夜灯は文化2年(1805年)に建てられた。高さ5.03m、秋葉山と書かれた常夜灯は旧東海道でよく見かけるが、こんなに大きなものは初めて。
この常夜灯の横の歩道橋へと上る(右上写真)。左には「秋葉山常夜灯」、中央に路面電車と「東八町」の駅、右手の広い道が国道1号線、私が歩いてきた旧東海道である。この歩道橋を右手へと進み階段を降りると「東惣門(ひがしそうもん)」がある(右下写真)。これは吉田城の門ではなく吉田宿(城下町)の門らしい。
吉田宿へと入り、何時ものラーメン昼食(今回のトロトロ肉とゴロゴロ大根の「肉塩ラーメン」は最高だった)、そして「吉田城」へと向かう。入口は「豊橋公園」となっており(左写真)、その奥には石垣がある(右写真)。
その奥へと進むと左手に「吉田城」(左写真)。入城無料、上の階から後ろの「豊川」を見ることができた(右写真)。
今回はJR「二川駅」から「吉田宿」7km、そして「吉田城」への往復1.4kmの全8.4kmのウオーキングであった。そして路面電車「市役所前」駅から「駅前」へと進み「豊橋駅」から「小田原駅」へと戻っていった。
「札木(ふだぎ)」停留所で下車し(左上写真)、
交差点を左折して進むと「吉田宿本陣跡」の石碑に
出会う(右写真)。さらに進むと菜めし田楽の老舗
「きく宗」がある(左下写真)。このお店は江戸時代に創業された由緒あるご飯屋さんである。
その先の交差点を右折し、広い道(蒲郡街道)に出た処に「吉田宿西惣門」がある(左写真)。ここが「吉田宿」の西の端となる。かつてはこの門の左側に番所があったという。そこから5分、次の信号を左折し進んでゆくと「湊(みなと)神明社」が右手の奥に見えてくる(右写真)。この神社は平安時代に創建の由緒ある神社である。
その境内を進み右手、池の橋を渡って進むと奥に「湊築島弁天社(みなとちくしまべんてんしゃ)がある(左写真)。あかい旗にはその「築島辮天社」と書かれている。これは1683年(天和3年)の建立から始まり、弁天社は1795年(寛政7年)の建造と言われている。もう一つの橋を渡り振り返ると、池と弁天社のコントラストが美しかった(右写真)。
神社の奥は「湊町公園」となっており、そこから「豊川」沿いの土手を進んでゆくと左手に「白魚句碑」があった(左写真)。1691年(元禄4年)に「白雪(はくせつ)」という歌人が「豊川」を舟で下ったときに詠んだものらしい。そこから「豊川」沿いの土手を200mほど進むと「トヨバシ遊園」があり、そこに「豊橋(とよばし)の親柱」がある。
公園から旧東海道へと戻り、「豊橋」を渡る。ここでは「とよはし」と書かれている。橋から国道1号線の「吉田大橋」を眺めると、その奥に前回訪れた「吉田城」が見えていた(右写真)。
「とよはし」で「豊川」を渡り、すぐに左折。5分ほど進むと「聖眼寺(しょうげんじ)」がある(左上写真)。ここは徳川家康が「吉田城」を攻めたときの本陣を構えた処らしい。そこから500mほど進むと古い町並みが出てくる(右写真)。町並みから600mで予定していた中華料理店。美味しいラーメンを頂いた。昼食後、中華料理店の先の角を120mほど進むと「爪郷(うりごう)遺跡」がある(左下写真)。この遺跡は弥生時代〜古墳時代の集落で、「竪穴式住居」が復元されている。
その後1.5kmほど進んでゆくが、途中から道が狭くなり、歩道が見当たらない旧東海道が続いてゆく(左写真)。大きめのトラックも進んでくる道なので、右側を歩き、後ろを振り返り、車がいないことを確認しながら前へ進む(向かいから来る車はセンターラインを超えて私を避けていたので、後ろから車が来ると危ない)という大変なウオーキングであった。
その後、歩道らしき空間がある道となる直前に「子だが橋」という処が現れる(右上写真)。解りづらいが昔は「子断(こだん)が橋」と呼ばれた橋であったらしい。1000年ほど前、この先にある「菟足(うたり)神社」には人身御供(ひとみごくう)があり、大祭初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄(いけにえ)にする習慣があった。ある年、贄狩(にえがり)を行う村人がこの橋を最初に通ったのが我が子であった。悩んだが、生贄にして神に奉(たてまつ)ったという。それから「子だが橋」と呼ぶようになったという。現在は十二羽の雀を贄に替えているという。
そこから1.8km先に「伊奈村立場茶屋跡」の石碑と解説版があった(右下写真)。それによると、ここは「吉田宿」とこの先の「御油宿」の中間にあたり「立場(たてば)茶屋」が設けられ、地名が「茶屋」となったという(立場とは旅人、人足、駕籠かきが休息する場所。杖を立てて一休みしたのでその名が生じたらしい)。
その300mほど先に「江戸日本橋より75里」と書かれた「伊奈一里塚跡」(左写真)。日本橋から300kmとなる。そしてこの「一里塚跡」から今回の終点まであと4km(一里)のキツいウオーキングである。なんとか2.4kmほど休みながら歩いて1号線との合流。そこから1.2kmほど進むが途中に「304.9m」の標識(右上写真)。そして1号線から離れ350mで「薬師堂瑠璃殿(るりでん)」(右下写真)。疲労のため写真撮っただけで通過、そして最後の550mで「国府駅(こうえき)」に到着。久しぶりの10km以上のウオーキング。名鉄名古屋本線で「豊橋駅」、新幹線で「小田原」、そして「二宮」。旧東海道は492kmと言われている。「伊奈一里塚跡」に書かれていた75里(300km)、そこから「国府駅」までの4kmを引くと188km、残りの旧東海道である。