旧東海道③ 武相国境〜馬入川
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旧東海道③ 武相国境〜馬入川
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前回のHP6周年記念「旧東海道②」、「多摩川(六郷川)」を渡り、川崎宿から「武蔵国(むさしのくに)」と「相模国(さがみのくに)」の国境の境まで、それに引き続く「旧東海道③」、武蔵と相模の国境から「馬入川(相模川)」までをお送りします。
前回の最後、「武相国境モニュメント」から交差点「境木地蔵尊前」を左折し、坂道を500mほど降ると「品濃一里塚」に到着する。ここは神奈川県の指定史跡になっている立派な一里塚。道の左右の塚が両方とも残っているのは大変に珍しい。右側(西)の一里塚の案内板(上左写真)があり、脇道を登っていくと「品濃一里塚公園」に出る。左側(東)の一里塚にも古い案内板があるが、その横に「私有地に付立入禁止」という看板がある(上右写真)。一里塚が私有地? 何のことやら。
右側(西)脇道を上り、小さな「品濃一里塚公園」へと進む。そこから一里塚をみると「神奈川県指定史跡 品濃一里塚」という碑はあるが、塚全体が荒れ放題というか、木や草がいっぱいでどこが塚か分かりづらい(上左写真)。
左側(東)の立入禁止の一里塚には、旧東海道から路をぐるっと回って進むことができる。ここにも「一里塚公園」があり、ちゃんと整備された一里塚を眺められる(上右写真)。この辺は旧東海道の西は「品濃町」、東は「平戸町」となっており、整備されているこちらの公園は名が付いていないが「平戸一里塚公園」と呼んでも良いだろう。
「品濃一里塚」から細い道を650mほど進み、急な坂をちょっと降ると「品濃坂上」と書かれた案内板(上左写真)があり、「江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な上り坂」と書かれ、明治初期の写真が飾られていた。そこから階段を下ると「品濃坂」と書かれた石碑(上右写真)がある。
そこから「環状2号線(17号線)」という広い道を歩道橋で横断する(上左写真)。その後、住宅の間の急坂を降り、高架道路(218号)をくぐり、小さな川沿いの細い道を進み「東戸塚駅入口」という交差点に出る。そして1号線に合流。先の「品濃坂」から1.2km進む。
そして1号線を1.5km進むと「柏尾の大山道入口」が現れる。この入口から50m位入り込んでみると「大山不動尊」がある(上右写真)。ここから大山街道を利用して伊勢原に入り、大山参拝に向かったという。
1号線に戻り、50mほど進む旧東海道は1号線から離れ細い道となって南下してゆく。その先の路地に入り込むと井戸が現れる。それが「護良親王(もりながしんのう)首洗い井戸」である(上左写真)。「護良親王」とは「後醍醐天皇」の皇子で、鎌倉幕府を倒すのに活躍するが、その後、「足利尊氏」と対立し鎌倉に幽閉され、結局さらし首となる。そして、親王の侍女がその首を盗み取り、この井戸で洗って清め、近くにある王子神社に葬ったという。
旧東海道に戻り、またちょっと進むと現れるのが「鎌倉ハム倉庫」(上右写真)。文明開化の頃、日本で初めてのハムの製造がここで始められたという。当時ここは「鎌倉郡」だったので「鎌倉ハム」と呼ばれたという。
その先、旧東海道は「舞岡入口」という信号で、国道1号線にまた合流し、300mほど先に「江戸見附跡」(上左写真)。ここから「戸塚宿」に入ることになる。そして350mほど先に「戸塚一里塚跡」がある(上右写真)。戸塚区吉田町にあるので「吉田一里塚跡」とも呼ばれる。残念ながらここの一里塚跡も案内板のみ。此処は江戸から10番目の一里塚で、「日本橋」から約40kmの処。当時は朝4時頃に出発し、10里(約40km)歩いて夕暮れに宿に入るのが一般的とされている。江戸の「日本橋」からの旅人は、やっと此処に到着して、宿を探したのだろう。
一里塚からちょっと先に「大橋」がある(上左写真)。橋の上の方に高く突き出している街灯は、大名行列がもつ長い柄の馬簾(ばれん:竿の先端に切り裂いた幟(のぼり)を垂らしたもの)を模したらしい。歌川広重の「東海道五十三次戸塚」は此処が描かれている。橋の先の道路にはその浮世絵が銘板(銘を彫り込んだ金属などの板)として飾られている(上右写真)。
「大橋」を渡り左折、JRの「戸塚駅」を越えて1号線へと戻り南下、約1.3kmほど先に「澤邉本陣跡」(上左写真)。戸塚宿に二つあった本陣のひとつ 澤邉宗三という人が戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけたという。明治天皇の東下の際には行在所となったという(写真の後ろの方の石碑に「明治天皇戸塚行在所跡」と書かれている)。そこから300mくらい進むと「八坂神社」(上左写真) 。ここは横浜市の指定無形民俗文化財「お札まき」で有名。これは、夏祭りに行う踊りで江戸時代の中期には江戸や大阪で盛んに行われていたという。やがて消滅し、今では「戸塚宿」のみに伝え残されている。踊って、神札を撒き散らす厄霊除けの行事。
「八坂神社」から200mくらい先の「戸塚町」という交差点にあるのが「冨塚八幡宮」(上左写真)。創建は延久4年(1072)の古いもの。山頂に古墳があり「富属彦命(とつぎひこのみこと)」の墳堂と伝えられている。これを「富塚」と称したのが「戸塚」の地名発生となったらしい。神宮の中(階段下左側)には、芭蕉句碑がある。「鎌倉を生きて出てけむ初松魚(はつかつお)」元禄5年(1692)、芭蕉49歳の作句(上右写真)
そこから150m先、「大坂下」というバス停の処で「上方見附跡」が現れる(上左写真)。京都から見て「戸塚宿」の入口を示す見附の跡地。そこから「大坂」を京都へと向かって300mほど登ってゆくっていくと「庚申塔群」が現れてくる(上右写真)。
「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳に出て来た「大坂」、天気の良い日には松並木から富士山が眺められたらしい。「大坂」は、かつては110mと54mの二つの急坂から成り立っていたが(だから鎌倉幕府の御家人「佐野さんの馬」が二度転んだらしい)、昭和の初めに改修され、一つの坂になったという。坂を進んでいく途中から道の東側の覗くと、ここは凄い高台である(上左写真)。当時は山の上の坂道だったんだなあ。
この坂道、「大坂上」というバス停を過ぎ、広い道となって1.4km、「吹上」という交差点の先で出て来たのが「原宿一里塚跡」(上右写真)。「吹上の一里塚」とも言われる、江戸から11番目の塚。しかし車の沢山通る道に建つ単なる碑だけ。 寂しい旧東海道一里塚跡である。
そこから車の多い1号線を約3km、何とか進んでゆくと旧東海道はそんなに多くの車通りでなく、歩道の脇に「道祖神」(上左写真)などがあり良い気分の下り坂となる。これは「遊行寺坂」と言われている。途中「緑ヶ丘」というバス停横には「旧東海道松並木跡」がある(上右写真)。解説版によれば、1960(昭和35)頃から松食い虫の被害で大半が枯れたという。この碑は平成4年に建てられた。
この「遊行寺坂」(上左写真:振り返って坂を見た)の途中にあるのが「藤沢一里塚跡」。「一里塚跡」とあるが、標木と解説板のみで何も残っていない。解説版によれば、一里塚はこの道の左右の崖上にあったという。つまり現在の道路は旧東海道を堀削改修(掘り下げる工事)して造ったらしい。現在、正月の駅伝で有名な坂も、江戸時代はもっとすごい急坂だったらしい。
その先に「藤沢宿 江戸見附」という案内版がある。「江戸見附」、つまり「藤沢宿」の江戸側にある「見附(見張り番所)」。ここから「藤沢宿」が始まる(上右写真)。この「遊行寺坂」を下ると右手には「遊行寺」がある。
「遊行寺(ゆぎょうじ)」では「大イチョウ」が有名(上左写真)。かつては高さ30m以上もあったが、昭和57年の台風で6mの辺りで幹が折れてしまった。しかしその後、樹勢が回復し、幹周りが太くなったという。寺の中はかなり広く、文化庁の「登録有形文化財」に登録された建造物10棟がある。宗祖の「一遍(いっぺん)上人」の像(上右写真)もあり、その風情はなんとも言えない良いもの。
「遊行寺いろは坂」を降り「惣門(総門)」を出たところで振り返る(上左写真)。門の奥に見えるのは「いろは坂」。寺から出て真っ直ぐ進むと「遊行寺(ゆぎょうじ)橋」、旧東海道が境川を渡るところに架けられた赤い欄干の橋(上右写真)。この橋は安藤広重の浮世絵にも描かれている(現在の橋は1960年に架けられたもの。かつては「大鋸橋」という名前だった)。
橋を渡り、突き当たりを右折し467号線(町田街道)を350m、5分ほど進むと「藤沢宿本陣跡」、蒔田源右衛門というひとが勤めた「本陣」があった処を通過。「本陣」とは宮家、公家、大名が休泊した施設。現在はその標柱が立つのみで、何も感じられない。しかし、この辺りには古い建築物が存在し、レトロな雰囲気はある(上左写真)。
この先500mを進み、細い脇道を入っていくとミステリーゾーン「義経首洗井戸」がある(上右写真)。「源義経」は兄貴の「源頼朝」に追われ、奥州へと逃亡し、1189年に衣川(岩手県奥州市)で自害したことになっている(それを逃れて北海道へ行ったというミステリーもある)。自害したのが「義経」本人かどうかは、その首が鎌倉まで運ばれて確認されることになる(これに関してもミステリーあり)。その首実検が終了し、浜に捨てられた義経の首は潮に乗って川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたという。
細い脇道から旧東海道に戻り、その先の交差点を直進(467号線(町田街道)は右折)、ちょっと進むと「京見附」の説明版が出現する(上右写真)。「京見附」、つまり「藤沢宿」の京都側にある「見附(見張り番所)」。「藤沢宿」の終わりである。
そこから1km程進むと「おしゃれ地蔵」(上左写真)。女性の願いは何でもかなえてくれるお地蔵(ホントは道祖神)さん。願った女性が白粉を塗ってお礼をするので顔が真っ白。今でも白粉が絶えないので「おしゃれ地蔵」と名づけられているそう。口紅も引かれてますね。この紅のメイクは最初からあったのかなあ(調べても分からなかった)。
それから1.5km、旧東海道らしいモノは全く出現せず、ひたすら歩くのみ。やっと現れたのが「四谷不動(大山道標)」である(上左写真)。「すぽれじゃ」の旅6で紹介した「大山道標」(小田原市国府津付近)と同じように「不動明王」が石碑の上に存在する(上右写真)。まあ、ホントに面白いモノとの出会いである。
「不動明王」との出会いだけでなかった。「四谷不動(大山道標)」の脇の道、すぐの処におおきな鳥居があった(上左写真)。後から調べてみるとこれは「一の鳥居」といわれるもので、万治4年(1661年)に木造の鳥居として製作されたもの。昭和35年(1960年)に大修理されて石の鳥居となった。「四谷不動(大山道標)」のあるところが旧東海道から「田村通り大山道」への起点なのであり、 この鳥居は大山への第一歩の鳥居なのである。そして「額束(がくづか:鳥居の上部中央)」には「天狗の面」が架かっている。
鳥居をくぐって大山道をちょっと進んでみると、小さな赤いお堂が見えた(上右写真)。中にはお地蔵様があり、寒いから毛糸の帽子をかぶり、首にはマフラーを巻いていた。このお地蔵さんと大山道の関係は全く分からないが、何となく良い気分をもたらしてくれた。
大山道の入口へと戻り、250mほど進むと「一里塚跡」が出現(上左写真)。解説版も全くない、これだけである。旧東海道の解説HPによればこれは「四ッ谷一里塚」「辻堂一里塚」と呼ばれているが、ほんとうに寂しい「一里塚跡」である。
そこからすぐの「二ツ屋稲荷神社」の処で「庚申供養塔」なるものが出現した(上右写真)。これは寛文10年(1670年)のもので、藤沢市指定重要文化財となっている。「庚申(かのえさる、こうしん)」とは昔の暦にみられる「千支(えと)」の60通りある組み合わせのひとつ(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10からなる「十千」と、子丑寅(ね-うし-とら)・・・の「十二支」との組み合わせ:まあ難しい話)。この供養塔の下の方には「見ざる言わざる聞かざる」の「三猿」が彫られている。まあ、ややこしい話となるので「庚申信仰」の説明は省略。
この辺りから「松並木」が所々に現れてくる。2kmほど進むと「牡丹餅茶屋碑」がある(上左写真)。これは「平塚宿」と「藤沢宿」の間にあった、旅人が休んだりする「立場」という施設(「八幡」-「南湖」-「牡丹餅」-「四ッ谷」の四つの立場があった)。そこには飲食できる茶屋があり、ここは「牡丹餅」が名物でそう呼ばれたという
こんな「牡丹餅立場の跡の解説版」を読んで、ふと西を見ると、そこには素晴らしい富士山が現れていた(上右写真:ちょっと望遠使用)。江戸からスタートして旧東海道を進む旅では、このような富士山を見ながら歩むことができたのだろう。素晴らしい「すぽれじゃ」旅だったのだろう。この辺りでは、この松並木が旧東海道を偲ばせてくれる。
松並木(上左写真)を楽しみながら1.8kmほど進んでゆくと「茅ヶ崎一里塚」が現れる(上右写真)。「茅ヶ崎一里塚」は「一里塚」という交差点にある。茅ヶ崎駅への通りは「一里塚通り」という名前になっている。今まで見てきた東海道一里塚は先の「品濃一里塚」以外は石碑や説明板のみだった。この「茅ヶ崎一里塚」は現存する一里塚である。残念ながら、道路拡張のため片方は取り除かれたというが、ちゃんと大きな塚と松が残っている。
そして2kmほど先の現在の「馬入橋(ばにゅうばし)」に到着。これは「馬入川(相模川)」を渡る橋で「日本百名橋」、「かながわの橋100選」に選定されている。相模川は東海道の難所であり、平安時代は「浮橋」で渡っていたという。この「浮橋」とは「水上に筏いかだまたは多くの舟を浮かべてその上に板を渡した橋[広辞苑第六版]」である。
「馬入橋」を渡れば、すぐに平塚市に入ることができる。しかし江戸時代、幕府は大きな河川に橋を架けることを禁止していた。だからこの「馬入川(相模川)」は「渡し船」で渡ることとなる。ちなみに、この先の小田原の「酒匂川」は、船渡りが禁止され、「徒歩渡し(かちわたし)」であったらしい。つまり、人足の手を借りて歩いて川を渡るのである。肩車や輦台(れんだい)に乗って担がれていくのである。
この現在の「馬入橋」を渡って平塚市に入り、茅ヶ崎の方を振り返ると日本橋から62kmという標識があった(上左写真)。相模川の土手を上流方向350m進み、「馬入ふれあい公園」となっている処に「馬入の渡し跡」がある。石碑(上右写真)といくつかの説明板がある。
6周年記念「旧東海道③」、「武蔵国」と「相模国」」の国境の境から「馬入川(相模川)」まではこれにて終了。次回は「旧東海道④」、「平塚宿」から「小田原宿」をお送りする予定です(今回の旧東海道の東戸塚〜茅ヶ崎の対象となったニュース「旧東海道その7〜11」のアーカイブは削除しました)
一里塚から1.7km、20分ほど進んでゆくと「南湖の左富士之碑」という石碑が出てくる(上左写真)。ここは、歌川広重によって描かれた旧東海道の「左富士」で有名。東海道を京都へと向かうとき、道の左側に「富士山」が見えるという珍しい場所である。残念ながらこの日は曇りで、富士山は見えなかった。この他には、静岡県富士市の「吉原左富士」と言われる処がある。
ちなみに左富士は新幹線でもあるという。静岡駅を過ぎて安倍川の鉄橋を渡った後に大きくカーブし、列車の左側窓から富士山が見える。この列車からの左富士がトリックとして使われた推理小説を読んだことがある。誰の小説だったか忘れてしまった(調べたら「斉藤栄」らしい)。
「南湖(なんご)」というのは、この辺りの地名。それは自然堤防州に立地する集落で、元々は「奈胡(なご)」で砂地を意味していた。それが「南胡」〜「南湖」と言われる(南の集落「南郷」から「南湖」へという説もある)。
そこから650mほど進んでゆくと国指定遺跡「旧相模川橋脚」なるものが現れる(上右写真)。鎌倉時代に、「源頼朝」が橋の落成式に出た後に落馬したという言い伝えがある。頼朝が滅ぼした平家の亡霊に馬が驚いて暴れ、そして川へと落馬、そのときの怪我が原因で死亡したと言われている。それによって相模川の下流部分を「馬入川(ばにゅうがわ)」と称するようになった。その落馬事件のあった橋(場所)がここである(現在の相模川「馬入橋」から東へ2kmほどずれた処)。ここにあるは鎌倉時代に架けられた橋、その橋杭(はしぐい)らしい。この橋杭は1923年(大正12年)の関東大震災、翌年の余震によって、突然、水田に出現したという珍しいものである。橋の幅は8〜9m、長さは40m以上と推測される立派なもの。鎌倉時代の相模川は現在よりも東側を流れていて、そこに架けられたらしい。