旧東海道 ㉓ 追分〜庄野〜亀山〜関〜鈴鹿峠〜白川            

              11/27-28 10/16-17

10/16 杖衝坂/血塚社/采女一里塚/

 石薬師宿/かるた道/新薬師寺

 蒲櫻/ゴッホの絵/石薬師一里塚/

 庄野宿-中冨田一里塚→平田町

10/17 百八十八番供養/和田一里塚/

 江戸門跡/亀山宿/お城見庭園

 亀山城跡/亀山神社/秀吉本陣跡


11/27 野村一里塚/大岡寺畷/

  関宿入口/東追分鳥居/関宿

 高札場跡/地蔵院/西追分/筆捨山

  伊勢坂下/身代わり地蔵

11/28 山路/片山神社/鏡岩/

 鈴鹿峠/1号線下/燈籠常夜灯/

 馬小唄/山中一里塚/田村神社

 土山宿/白川橋

 

 「旧東海道」ウオーキング56、前々回、前回と同じ三重県。「小田原駅(8:07)」から新幹線ひかりで「名古屋駅(9:14)」、そこから近鉄の特急電車で「近鉄四日市」駅。5分で「あすなろう四日市駅」へと向かい、乗り替えて12分、前回の最終地「日永の追分」の近くの「追分駅」で下車。そこからスタートして12km、途中の街(鈴鹿市平田町)で1泊し、翌日10km、三重県の「亀山市」を目指すという1泊2日22kmの「旧東海道ウオーキング」なのである。


 「近鉄名古屋駅」から「追分駅」まで45分、10:15スタート。駅前の広い道から直ぐ近くの細い道へ(左写真).30分後、国道1号線と合流、なんと「日本橋」から401.7kmの地点なのである(右写真)。

  その先の「杖衝坂(つえつきざか)」(右写真)は「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」が病にとりつかれ、大和に帰るためにこの急坂を杖をついてようやく登れたのでついた名前らしい。そして少し進んだとき「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」(勾:まがる)と言ったらしく、この辺を「三重」と言うようになったらしい。また「松尾芭蕉」が1687年に江戸から伊賀へと帰るとき、この急坂で落馬し、すぐに俳句を詠んでいるらしい。「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」。この句碑は1756に建立したらしい(右写真)。


 急な坂の始まりには「金刀比羅宮」がある(左写真)。金刀比羅さんは元々海上交通の守り神であったが、旅の安全を祈る宮となったらしい。その先には「うつべ町かど博物館」がある(左写真奥)。

 坂道は長さ200mほど、高さ50〜60mの急坂であるがそんなに長いわけでもない。転ばないように進むと坂は終了(左写真)。その先(黒い建物の向こう側)に「血塚社」なるものがある(右写真)。これは「日本武尊」が出血した足を洗い流したところと伝えられている。


 「血塚社」から350mほど進むと右手に「采女一里塚跡」。ここが東海道101番目の一里塚である。公園となっており、塚は国道1号線の工事によって姿を消したらしい。250mほど坂を降り、国道1号線と合流、国道の向こう側のガソリンスタンドの横に「采女一里塚跡」の石碑が立っていた(左写真)。

 1kmほど1号線を進み、ラーメン屋さんで昼食。そして350mでまた細い道へ。ここから「四日市市」から「鈴鹿市」へと入る。すぐに右手に地蔵堂が2棟建っていた(右上写真)。そしてその内部(右下写真)。


 「地蔵堂」から800mで国道1号線」と合流。ここには「地下道」があり、それを潜って1号線の向こう側に出る(左写真)。1号線を400mほど進んで右手の細い道へと入って行く。


 細い道に入るとすぐに「石薬師宿道標」が現れる(右写真)。ここから石薬師宿「信綱かるた道」(1.8km)が始まるという案内版がある(詳しいことは後ほど)。その奥の方には「北町の地蔵堂」がある(右写真)。江戸時代に宿場として賑わったこの入口に建てられた「延命地蔵さん」であるらしい。現在この付近の16軒の方々で地蔵講を結成しているらしい。

 宿の入口から600mほど進むと「小澤本陣跡」がある(左写真)。「本陣」とは大名が泊まる宿である。そのちょっと先に「佐佐木信綱」の生家と記念館がある。先ほどの「信綱かるた道」の「信綱」さんである。この方は明治5年生まれの歌人・国文学者であり「万葉集」の研究などを行っていた。記念館には英訳の万葉集「THE MANYOSHU」も展示されていた。彼のかるたの歌50首が1.8km、道の横や古い家屋の壁に飾られている(右写真)。


 「信綱かるた道」は1号線の上を通り(左写真)、橋の右手に「石薬師寺」が現れる。このお寺の名前から「石薬師宿」という宿場の名前が生まれたという.浮世絵師の歌川広重が東海道五十三次にこの宿場の全景を描いたことで知られ、本堂の左側にその浮世絵が展示されている(中写真)。寺の直ぐ近くを1号線が通っているが、寺の中は緑が多く静か(右写真)。

 お寺さんのすぐ近くに「石薬師の蒲櫻」という県の天然記念物の桜がある。伝説によれば、「蒲の冠者(かばのかじゃ)」とも呼ばれる「源範頼(源頼朝の異母弟)」が平氏追討のために西に向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿し、それが芽を出してこの桜となった、それ故に「逆桜(さかさざくら)」とも言われているらしい(左写真)。

 この桜に近づいて行くと、通りかかった地元の年配の人が私に話しかけてきた。「有名な桜はすぐ先、貴方もその桜を見に来たんだなあ」「はい、そうです」「その桜、ゴッホが絵に描いたのを知ってるかい?」「えっ、ゴッホって、あの ひまわり や自画像で有名な画家ですか?」。彼は財布の中から紙を出し「そう、これがゴッホの自画像、後ろに浮世絵や富士山、右の上がこの桜の絵なんだなあ」「へ〜、知らなかった、勉強になりました、ありがとうございました」。

 ゴッホが浮世絵を模写した話しは聞いたことがあったが、後日ホームページで調べて見るとこの「タンギー爺さん」という1887年にパリで描かれたもの(右写真)。自画像ではなかったが、ゴッホが絵具を買っていたお店の爺さんの肖像画であったのだ。


 桜から300m、5分ほど進むと「石薬師一里塚」(左写真)、そしてその先に見えるトンネルのようなものを潜って進む。それはJR関西本線だったのだ(右上写真)。

 トンネルを潜ると、すぐに右折。「庄野宿→」という案内版に従って進む。右の上が関西本線、そして国道1号線の下のトンネル(右下写真)を潜り、何だかんだと訳の分からない旧東海道を進んで1号線に合流。


 1号線を1.5km、20分ほど進む。右の草木が歩道の半分くらいを占領し、1号線はトラックが沢山進んでくる、怖いウオーキング。やっと「庄野宿入口」にたどり着く(左写真)。

 庄野の宿場町を進んでゆく、とても静かな処である。「庄野宿入口」から5分くらい進むと古い家屋が出てくる。これは「旧小林家」で、今は「庄野宿資料館」となっている。残念ながら本日は休館日、入ることが出来ない。その前には歌川広重の東海道五十三次の絵、見たことがある。絵の横の解説には「庄野白雨」という広重の傑作、代表作と記してある。「庄野」という宿場は知らなかったが、この広重の絵は知っていた。


 そこから10分ほど歩くと右手に「川俣神社」がある(左写真)。その右手の奥に巨木がある(右写真)これが「川俣神社のスダジイ」と呼ばれる県の天然記念物、樹齢約300年、高さ15m、地上2mくらいから多くの大枝に分かれている。「スダジイ」とはブナ科シイ属の常緑樹である。「スターの爺さん」のことかと思った。

 「スダジイ」から400m、国道1号線を横切るが、そこで見えたのが「410」、先ほどは「401.7」であったがここは日本橋から410km、ちょうど切りの良い距離(左上写真)。その先を左に曲がり1km、15分ほど歩いて「中冨田一里塚」(右上/左下写真)。

 「一里塚」から500m、そこにある「西冨田東」というバス停で2時間に1本というバスを待つ。15分くらい待つとほぼ時間どうりにバスが来てくれた(右下写真)。15分くらいの乗車で近鉄鈴鹿線の「平田町」駅へ。そして駅近くのホテルで1泊となる。


 1泊して次の日、平田駅からのバスが9:30までないので、タクシーで昨日のバス停「西冨田東」を目指す。8時頃から平田駅前のタクシー乗り場で待つが、駅に来るのは学校のバスばかり。平田駅で下車した学生さんが登校するバスばかり。20分ほど待ってようやくタクシーが到着。バス停の名前を言っても解らないらしい。「一里塚」「一号線の手前の旧東海道」「取りあえず川を渡って1号線の方へ」ということで進む。そうして前日の「①410km」という処を見つけ「そこ左に」ということで旧東海道に出た。そして「中冨田一里塚」を通って「西冨田東」。タクシー運ちゃんの土地の感覚と私の昨日の記憶で無事到着であった

 バス停から1km、安楽川を渡り15分ほど進むと地蔵堂がある(左写真)。「百八十八番供養塔」という名前で、江戸時代に弘法大師霊場188箇所を巡礼した人たちがその満願成就記念に建立したものらしい。 そこから旧東海道をすすむと,屋根の瓦の上に面白い人形?が座っている古い家を発見した(右写真+拡大写真)。



 そこから300mほど進むと右上に「地福寺」がある(左写真)。この写真の左にあるミラーの左の下、その下り坂を降りて、ちょと広い道を横断して、細道を進んでゆく。200mほど先の突当を右折、すると古い感じの踏切(右写真)を通過。


 そしてすぐに「井田川駅」に到着。これはJR関西本線の駅。そしてその横には「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」の像(左写真)。前日に通過した「杖衝坂(つえつきざか)」、そこで足が「三重」となってしまった病の「日本武尊」はこの辺りで亡くなった。そして彼は白鳥となって故郷大和へ飛び立っていった。だから白い像なのだ。因みに左右の写真に写っているホームの沢山の黄色い帽子の子供たち、彼らは「遠足」のようだ。

 駅から2.3km、30分くらい進む。街道にある和田町の公民館、その前に立つ塔(右写真)。塔に上にはスピーカー、町内の放送施設のようだ。



 そしてたどり着いたのが「和田の一里塚」(左写真)。スタートしてから5km。天気は良いが日差しはキツい。一里塚の裏側の日陰で一寸休憩(右写真)。



 古い看板が面白い街の中を進んでゆく(左写真).「一里塚」から1.8km、25分進んで突当、「江戸門の跡」を右折して「東町商店街」を進み、この交番前の交差点を左折。そして古い道の下り坂(右写真)。



 そして「亀山宿の碑」に到着(左写真)。階段を登って上に行くと「お城見庭園」。そこから眺めると、右はさっき歩いてきた古家屋がある道。正面には池があり、その上の方が「亀山城跡」(右写真)。


 池の横の道を登ってゆく(左写真)。その正面にあるのが「亀山城多聞櫓(たもんやぐら)」(右写真)。石垣が立派である。

 この「多聞櫓」前の道の向こうは「ますみ児童公園」となっており、その片隅に蒸気機関車が飾られている(左写真)。左下の子供たちは遠足で来てるようだ。「お城見庭園」へと戻り、その横の坂道、旧東海道を登ってゆく。その街道にはかなり古い屋敷が残っている(右写真)。

 街道を進むと「亀山城西之丸外堀」の遺跡に突き当たり、そこを左折し150mほど進むと右手に「京口門跡」がある(左写真)。今はお寺さんの一部のようになっているが、かつての「京口門」は石垣に番所を構え、通行人の監視にあたっていたという。 そこから古い街並みが続く旧東海道を次の宿へと進んでゆく(右写真)。



 その近くの洒落たレストランで昼食(昼はいつもラーメン)。そこから東海道からはずれて「亀山駅」へと戻る。その裏道に「羽柴秀吉亀山城攻め本陣跡」がある(左上写真)。今は公園となっているが、その裏には小さな橋がある。その裏の川沿いの細い道を進んでゆく(右写真)。今日も日差しが強く、日陰があっても座るところがない。そして変な橋の下を通るが、この橋の上は先ほど通っていった旧東海道。そして秀吉の本陣跡から1.3km、20分歩いてやっと「亀山駅」に到着(左下写真)。昨日と今日で22kmのウオーキング終了。「亀山駅」から関西本線70分で名古屋駅、そして新幹線で小田原へ。次回は1泊2日で「鈴鹿峠」を越える予定、大丈夫かなあ・・・?


 「小田原駅(8:07)」から新幹線ひかりで「名古屋駅(9:14)」、そこで50分ほど電車を待ち、関西本線で1時間「亀山駅」へと向かう。そしてすぐにタクシーで、前回の東海道上の最終地「慈恩寺(じおんじ)」、ここからスタート。10分ほど歩くと「野村一里塚」が現れる(左/右上写真)。ここの巨大な老木は樹齢400年の「椋(むく)」。この一里塚の大きな樹木は今まで見てきた中のトップクラスと思われる。


 そこからまた10分くらい歩くと小さなお手製の案内版を右折。するとすぐに左手に鳥居が現れる(左写真)。その奥へと150mほど続く燈籠の道を進むと、「布気皇館太神社」が現れる(右写真)。

 旧東海道へと戻り進むと昔の感じの家屋が現れる。ここは「神辺簡易郵便局」となっている(左写真)。その先に下の方へと下る道があり、その左手にあるのが「昼寝観音」(右写真)。そして手前にある「観音堂」に二つの観音さんがいらっしゃった。

 坂の下へと東海道を進み、途中、「関西本線」の上を横断する道を通り「鈴鹿川」と併行しての道を進んでゆく.これが「大岡寺綴(だいこうじなわて)跡」、「綴(なわて)」とは真っ直ぐな長い道「長縄手」のことであり、ここでは2kmほど続いてゆく。左手に「鈴鹿川」が見えており、その先に「名阪国道」とその脇道が通っている(左写真)。その脇道の下のトンネルの左右に東海道の浮世絵が飾られていた(右写真)

 2kmの「綴(なわて)」を歩き、1号線と合流、その先に「関宿」の入口が見えてきた(左写真)。写真の右には「関宿」という看板がある。そこから500mほど進むと関宿の「東の追分」(右写真)。鳥居は「伊勢神宮」の古い鳥居の移築らしい。鳥居を通って「伊勢神宮」までは15里(60km)、遠い。その横には燈籠と一里塚の跡がある。ここから古い建物が左右にある関宿が続いてゆく。

 関宿はこのような古い建物である町屋が続いてゆく(上右写真).200棟以上が現存するらしい。そして「百六里庭」がある建物(右上写真)、その2階の展望台からの関宿の町並(左下写真)。「関宿高札場」(右下写真)。宿場には「高札場」が残っている処が多いが、ここのはかなり大きい。 「日本橋 関宿からは 百六里 関宿かるた」。

 そして通りの先に地蔵院「寳蔵寺」が見えてくる(左写真)。「関の地蔵」と呼ばれるこのお寺、その正面の「本堂」(右写真)、その左手にある「鐘楼」、本堂の左奥にある「愛染堂」という建物が国の重要文化財に指定されている。

 そして最後の通り(左写真)。その奥に見えている山並みに「鈴鹿峠」があるのだ。そして関宿の終点には小さな公園があり、1号線と合流する(右写真)。先の「東の追分」からこの「西の追分」まで1.8km続いた「関宿」であった。

 1号線を700mほどの進み、1号線から右の小道へ進む。その道の脇には「石灯籠」(左写真)。そして1号線を横断して次の小道へ。10分ほど小道を歩き、1号線と合流。そして坂道をひたすら進んでゆく。正面奥に見えているのが「筆捨山」(右写真)。この山の名は「岩根山」であるが、室町時代の絵師がこの山を描こうとしたが、雲や霧の影響で描くのを断念して筆を捨てたから「筆捨山」。そして1号線をさらに登ってゆく。歩道の右手下には綺麗な河が流れていた。

 1号線を1.3km、20分ほど進み右手の脇道へと入る。山の中へ入って行くような細い道(左上写真)。旧東海道であるが、自然探勝歩道「観音山歩道」でもある。この先には民家があり左手には先ほどの綺麗な河が流れている。その先には昔の雰囲気が漂う民家もある(右上写真)。


 このような坂道を、1号線から右折して2.6km、40分ほど歩いて本日の終点「伊勢坂下」に到着。時間があったので500m先の「身代わり地蔵尊」を参拝し、鈴鹿山「法安寺」を見学し(左下写真)「伊勢坂下」へ戻る。そこのバス停から山を降りる計画だが、バス1時間待ち。なんとこの路線の運航は日に4本。16:05の最終バスに乗る予定だったのだ。バス停の裏側に公園があり、日が暮れていく綺麗な山並みを見ながらのんびり(右下写真)。子どもも大人も全く来ない。遠くで白い猫が覗いていた。だんだん寒くなるのでストレッチ、柔軟操・・・。

 やっと1時間が経過しバスが到着。ここから「関駅」まで18分、客は私ひとりのみ。「関駅」に到着、タクシーを探すが無し。駅の中の観光案内所の人に尋ねると、「関駅」ではタクシーの常駐は無し。タクシー会社に電話をして来てもらい、5分ほど先のホテルへ。明日は「鈴鹿峠」を越えていくウオーキング。大丈夫かな〜。

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 次の日、朝、予約しておいたタクシーでホテルから「伊勢坂下」。時間は20分くらい、料金は4000円、いよいよ「鈴鹿峠」へのチャレンジ。「伊勢坂下」の道は昨日の「身代わり地蔵尊」の先で1号線と合流。ここがスタート(左写真)。右に「通行止」という看板があるが、歩く人は通っていける。ここの1号線は下り路線のみ(登りは左手の山の向こう)。その1号線の歩道を登ってゆく。天気は快晴。600m、10分ぐらい進んで旧東海道は右手の山の中へと入って行く(右写真)

 完全な山路、林の中を進んでゆく(左写真)。10分ほど登ってゆくと「片山神社」が現れる(中写真)。「鈴鹿大明神」とも呼ばれ、立派な鳥居と急な階段がある。この階段を登って参拝する元気はなかった。峠への道はまだまだ続く。

 かなり急な坂道が続く(昨日の夜雨で足元は滑りそう)。そして現れたのがこの建造物。その下の道を登ってゆく(右写真)。この建造物は1号線の橋。その下の急な階段を登ってきたのだ。そして1号線の向こう側に出てくるが、ここが峠ではない。この先の坂道をまた登ってゆく。


 階段らしきものを登り、その先左折(左上写真)。落ち葉で登る処が隠れたしまった急な坂。やっと日差しが当たるようになり、遠くの山々も見える(右上写真)。

 そして、やっと峠に到着(左下写真)。このまま右手に進めば良いのだが、「鏡岩 150M」と書かれた白い矢印が気になった。また坂道を5分ほど登ると「鈴鹿山の鏡岩」という看板と説明板に到着(右下写真)。後ろに見えている巨岩が「鏡岩」。山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲い、「鬼の姿見」とも言われているらしい。その鏡のような部分は巨石の向こう側、近づくためのロープが張ってあるが急すぎて断念。光が当たって輝いているような部分を見ただけ。鬼が出てこないうちに戻った。

 「鏡岩」から戻り、ちょっと進むと明るいところ。案内版と石碑が立っている。この手前の石碑は「三重県(伊勢の国)」と「滋賀県(近江の国)」の境目を記してある(左写真)。ちょっと下りぎみの道(滋賀県)を進むと「万人講常夜灯」が現れる(右上写真)。これは道中安全を祈願して江戸時代に建立されたもの。高さ5m44cm、重さは38トン。この日が差して暖かいところでしばし休憩。そして坂を降って1号線と合流する。1号線を20分ほど下っていくと道路標識があった(右下写真)。「東京より435km 大津まで50km」。


 さらに15分、1号線を下って右手の細道へと入って行く。そこにあるのが「馬子唄公園」(左写真)。そしてそのちょっと先、右手に「山中地蔵堂」。「馬子唄公園」からの細道は700mほど続き、1号線と合流する。その合流地点の右側に「山中一里塚」がある(左上写真)。その反対側左側には「第二名神 滋賀県起工の地」のモニュメントが建っている(左下写真)。その上を通っているのが「名古屋」と「神戸」を結ぶ高速道路なのである

 1号線を10分700mほど進んでゆくと、右手の下の方に「猪鼻村」が現れる。1号線からその下の道に降りると「東海道 猪鼻村」と書かれた道標がある(右下写真)。村のこの東海道はそんなに長くなく、最後は急な坂を登り1号線へと戻る。

 1号線を5分450mほど進むと下りの細い道があり、右手に「榎嶋神社」、そこの「椎の木」が立派なものである(左写真)。そこから細い道を600m進むと「蟹坂古戦場跡」が広がる。ここは天文11年(1542年)に戦のあった処。

 そこから300m進むと「海道橋」が現れる(左写真)。この橋は「田村川」を渡る橋。

 そして現れるのが「田村神社」。鳥居の下を通り進んでゆくと「田村神社拝殿」(右写真)。これで終わりかと思ったら、この「拝殿」の奥に通路があり、その奥に「田村神社本殿」があるのだ。この神社は弘仁3年(812年)創建、「鈴鹿峠」の悪鬼を平定した「坂上田村麻呂」、それを命じた「嵯峨天皇」が祀られている。だから「田村神社」なのだ。

 「田村神社」の近くの「道の駅 あいの土山」で昼食の予定だったが休業中(なんと10月から休業、ネットにそれが書かれていない)。しょうがなく、近くにあった「セブン」でラーメンを購入、レンジしてもらって昼食。店内で食べることができたが、テーブルはあるが椅子はない。「立ち食いそば」は経験あるが「立ち食いラーメン」は初めて。

 そんな悲惨な昼食の後、裏道の旧東海道を2km30分ほど進んでゆく。まず「地蔵尊」(左写真)、そして「土屋宿」の町並みが続いてゆく。 その後「土山一里塚跡」の石碑.小さな河にかかる「来見橋」を渡る(右写真)。この白いものは何か? 近づいて見ると昔の街道の絵が描かれていた。

 そして「白川神社」の鳥居,その先の蕎麦屋さん(左写真)。この写真では見えないが、道の先の方に赤いコーンが置かれている。工事でもやっているのかなあ、と進むと体操着、赤い帽子の小学生が走ってきて、赤いコーンでUターン。コーンの先で女性の先生が「がんばれ〜」。私も「がんばれ〜」。先生に「小学校の時、旧東海道を走ったなんて善い思い出になりますね」と話してしまった。後から調べるとこの街道のすぐ裏に「甲賀市立土山小学校」があった。そしてそのマラソンコースのちょっと先に「伝馬館」(右写真)。これは歴史博物館であったが、小学生のマラソン以上に疲れていた私は通過。

 そしてその先の町並み(左写真)、そして1号線と合流(右写真)。ここにおいて2kmの「土屋宿」終了。

 その後、1号線を横断して昔、渡し船があった「野洲川」の近くまで行き、1号線に戻り、「白川橋」を渡ってバス停へ。今日は約12kmの峠越えウオーキング。風が強くなり寒くなってきた。バス停で20分ほどバスを待ち「貴生川駅」へ。そこから「草津」-「米原」ここから新幹線ひかりで「小田原」そして「二宮」。バス、電車、4時間15分の帰り旅であった。