旧東海道④ 馬入(平塚)〜小田原
ホームページ 開局6周年記念
旧東海道④ 馬入(平塚)〜小田原
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「馬入川(相模川)」に架かる「馬入橋」を渡り「馬入交差点」に到着。この辺りに一里塚の跡があるはずだが見当たらない。ちょっと探し、交差点の反対側に発見。反対側の歩道を歩いて行ったので見えなかったらしい。「東海道馬入一里塚跡」と書かれた石碑がある(上左写真)。説明板によれば、9m四方の塚が旧東海道をはさんで南北にあったという。
一里塚から20分ぐらい進むと「平塚駅前」という交差点。ここまで何の「跡碑」もなかったので、駅近くにある「お菊塚」を訪問(上右写真)。このお菊さんは平塚宿の役人の娘さんで、江戸の旗本のところに奉公中に殺されたらしい。この出来事を素材として「番町皿屋敷」という怪談が生まれたという。あの、「一ま〜い、二ま〜い・・・うらめしや」と皿を数えた「お菊さん」、知らなかった。
前回のHP6周年記念「旧東海道③」、武蔵と相模の国境から「馬入川(相模川)」まで、それに引き続く「旧東海道④」、「平塚宿」から「小田原宿」までをお送りします。
「お菊さん」の墓地から旧東海道に戻り、平塚市民センター手前の広場に復元された「江戸見附跡」がある(上左写真)。「見附」は本来、見張り場の「城門」のことをいい、ここから(京へと向かう人には)平塚宿が始まる施設なのである。長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mのこの石垣、当時は少しずれた形で、道の東西両方にあったという。
この先、多くの史跡が存在する。「脇本陣跡」(上右写真)「高札場跡」「本陣旧蹟」「東組問屋場跡」「西組問屋場跡」が旧東海道に面してあるが、そこにあるのは説明が書かれた「跡碑」だけでちょっと残念。
旧東海道を進んでゆくと塚が出てくる。これは平塚宿の「京方見附之跡」である(上左写真)。主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み見附(みつけ)と呼ばれる構造物があるという。ここは京都に近い方、京方(上方)見附であり、先ほど訪れた江戸側の出入口「江戸見附」からここまでが平塚宿の範囲である。この見附から西を向くと「髙麗山」を臨んだ風景となる(上右写真)。それが歌川広重の東海道五十三次「平塚」の風景である(ちょっと建物が邪魔しているが)。
その先の「花水川」の手前に塚が出現する。この、一里塚らしく大木が植えられた塚は「平成の一里塚」(上左写真)。つまり平成に作られた一里塚のレプリカ。石碑や看板だけの「一里塚跡」と較べ、雰囲気は何となくあるが、ここはかつて一里塚があった場所でもない。そして「花水橋」で「花水川」を渡り、右手に「髙麗山」を眺めながら「髙麗」へと入ってゆく(上右写真)。
「花水川」を渡って5分、右側に「高来神社」(上左写真)、そのちょっと先に「虚空蔵堂」が出てくる(上右写真)。このお堂は「虚空蔵(菩薩)」と「熊野権現」を祀ったもの。かつてはお堂の右側に「下馬標」があり、大名行列もここで下馬し、「髙麗山(こまやま)」の山中に江戸時代まであった「髙麗寺(こうらいじ、こうらじ)」(東照大権現である徳川家康が併祀)に最敬礼をして通っていったという。現在は「髙来(たかく)神社」として存在している。ここは「大磯宿」と「髙麗寺村」の境界である。
そこから2分ぐらい進むと「化粧坂交差点」があり、現在の国道1号線から旧東海道は右手へと分かれてゆく(上左写真:旧東海道は直進、左手が国道1号線)。ここで興味深いのは「化粧」を「けわい」と読むこと(国道1号線から分かれる交差点も「化粧坂 kewaizaka」と書かれている)。そしてこのちょっと先に「化粧井戸(けわいいど)」という遺跡がある(上右写真)。ここは鎌倉時代の白拍子(遊女)「虎御前」が朝夕、化粧をした井戸と言われている。この「虎女」さんは「曽我物語」の主人公の恋人らしい。
この辺りの旧東海道は緑に囲まれ良い雰囲気の街道である(上左写真)。そしてこの辺りに「化粧(けわい)坂の一里塚」があったという説明版がある(上右写真)。残念ながら一里塚の跡は全く残っていない。
この一里塚の跡付近は江戸時代の雰囲気が十分残っている、非常に良い街道である(上左写真)。しかしちょっと進むと旧東海道はJR東海道線を潜ることとなる。「竹縄架道橋」という鉄道橋の下である(上右写真)
トンネルを潜るとまた良い雰囲気が戻ってくる(上左写真:トンネルの方を振り返ったもの、地下道の上にJR貨物列車が通過中。その後ろには髙麗山)。その先にあるのが「大磯江戸見附」の説明版。これは「大磯宿」の出入り口、防御施設で、宿場の江戸側にあるから江戸見附。残念ながらここも説明版のみであるが
この旧東海道は松の木などに左右を囲まれ、江戸時代の東海道の感じを満喫できる。車もほとんど通らない。「化粧坂交差点」から約1km続き、また国道1号線に合流する。
国道1号線を400mほど進むと、先ほどの「化粧井戸(けわいいど)」で化粧をした「虎御前」の成長とともに大きくなった生石、彼女の恋人、曽我十郎の剣難を救った身代石、そんな不思議な「虎御石」を祀った「延台寺」がある(上左写真)。そこからちょっと先に「大磯宿小島本陣跡」の石碑がある(上左写真)。この辺りが「大磯宿」の中心であったと思われる。
そこから500mほど進むと、大磯町役場の近くにある「鴫立庵(しぎたつあん)」に到着(上左写真)。これは江戸初期に創建された俳諧道場だそうである。その入口の横には「湘南発祥之地 大磯」という石碑と解説板があり、「湘南」の由来が書かれている(上右写真)。それによれば、この「鴫立庵」の前の小さな沢、それは「鴫立澤(しぎたつさわ)」と呼ばれ(12世紀、西行法師が詠んだ和歌がある)、それを慕って崇雪という人が江戸時代(1664年頃)、「鴫立澤」は中国の「湘南」のように清絶(せいぜつ=非常に清らか)だ、とした標石を立てたことから始まったという。
「鴫立庵(しぎたつあん)」から坂道を300m進み、「大磯中学校」辺りから立派な松並木が現れる(上左・中写真)。松並木の右手には「富士山」を望むことができる(上右写真:右端の山の向こう/電柱の右に白い富士山)この松並木は500mほど続き、中には高さ25m、樹齢約150年の「クロマツ」があったりする。進んでゆく左手、海岸の方には「旧大隈重信邸」や「旧伊藤博文邸」の「滄浪閣(そうろうかく)」がある。
松並木が終わり、そこから1.2km先には「旧吉田茂邸」があり、旧東海道は国道1号線から離れる。そこを800mほど進んでゆくと「国府本郷の一里塚跡」がある。江戸から17里という看板と案内板のみ、残念ながら一里塚の跡地ではない。案内板には「ここより200メートルほど江戸よりに位置していました」と記されているが、その場所には民家が建ち並び、全く痕跡はない。
そのちょっと先の「国府新宿」という交差点で旧東海道は国道1号線と合流。その後、JR東海道線「二宮駅」を通り、2.7kmほど進むと旧東海道は「吾妻神社入口」という信号で国道1号線から離れる。この「吾妻神社」は右手の二宮の「吾妻山公園」にある神社。この入口にある鳥居から入り、JR東海道線の上を歩道橋で越えて、その先の「梅沢登り口」から急な山道を登って到着。大変な神社である。神社の方には進まず、旧東海道を450m程進むと国道1号線と合流。離れ、その合流点には「道祖神」「天社神」などの石碑が集められている(上右写真)。
合流点から450m程進むと旧東海道は「押切坂上」という信号でまた国道1号線と離れる。その分離点に「二宮一里塚の跡」がある(上左写真)。ここも塚は残らず、石碑と解説版のみである。この「押切坂上」という処は、箱根駅伝でTV中継される急な坂である。しかし旧東海道は駅伝コースの上を進む道であり、途中には道祖神が祀られている(上右写真)。この下が駅伝坂道の道、そこで旧東海道は国道1号線と合流。
合流した国道1号線を1kmほど進むと「大山道道標」が現れる(上左写真)。ここがいろいろある大山道の「羽根尾通り入口」である。ここから「中井町」へと北上し、「すぽれじゃ研究所」の近くの「宇塔坂」を登り、そして「秦野」から「大山」へという道である。
この辺りは道祖神が多く祀られている(上右写真)。ここから「国府津4丁目」となり、JR東海道線「国府津駅」を通ってゆく。
「国府津駅」から1kmほど進むと「一里塚」、なんとここは「一里塚」という名前のバス停である((上左写真)。このバス停の近くに「東海道小八幡の一里塚」という解説版が置かれているが、全く痕跡はない。このバス停一里塚から2kmほど進むと「酒匂川」。この酒匂川の渡しも「川越し人足」に担いでもらう徒涉(かちわたり)で難所のひとつだったらしい(上右写真:遠くに富士山)。
小田原宿へと入ると「江戸見附跡」(上左写真)と「小田原三王原一里塚」(上右写真)が現れる。そこから300m先の交差点「新宿」で右折して国道1号線から離れてゆく。そして100mでまた右折、古い町並みを700mほど進んでまた1号線と合流。そして箱根の山へと入ってゆくのである
6周年記念「旧東海道 平塚→小田原」」はこれにて終了。次回は「旧東海道⑤」、「小田原宿」→「箱根」をお送りする予定です(今回の旧東海道の平塚〜小田原の対象となったニュース「旧東海道その1〜2、6」のアーカイブは削除しました)
そして「酒匂川の渡し」の後、旧東海道は国道1号線と異なる道となるが、すぐに合流し、1km程進むと日本橋まで83kmという標識があり(上左写真)、そして東海道小田原宿へと入ってゆく(上右写真)。