旧東海道⑤ 小田原〜箱根

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 前回のHP6周年記念最終回。前回の「平塚宿」から「小田原宿」に引き続く「旧東海道⑤」「小田原宿」から「箱根(関所)」までをお送りします。

 小田原城の辺りから箱根方面へ進み東海道本線をくぐり、新幹線の手前、「板橋(上方)口」と呼ばれる場所から、旧東海道は右手の方へと進む。この路には江戸時代のものではないが、かなり歴史を感じる建物が残っている。左上写真の豆腐屋さんは、「のれん」に創業100年と書かれている。「創作がんも揚げ」という色々な種類の豆腐料理を販売している。


 その先には1903年(明治36年)に建てられた内野家の醤油製造の店舗と住宅がある(上右写真)。中には「なまこ壁」や「石造りアーチ」などがあるそうで公開されている。しかし残念ながら、公開は月の第2,第4の土日だけで見ることはできなかった。



 その後、大祭の時には旧東海道に200軒もの露天が出ることで有名な「板橋地蔵尊」が見えてくる。御堂の右横の「福興大黒尊天」(上左写真)の顔がとても大きくて、なんとなく可愛く見えるのが不思議である。この製作は関東大震災の翌年、樹齢1500年のクスノキを立木のまま6mの高さに彫ったと言われているらしい。


 その先に進み、箱根登山鉄道の高架をくぐると東海道と合流。箱根に向かって左手には「早川」が流れ、自然がしっかりと残っている。この辺に小田原用水(早川上水)取入口があり、江戸時代の前から利用されており、その跡地(いつ頃のものか不明)が残っている(上右写真)。


 700mくらい早川沿いに旧新東海道は進んでいくが、箱根登山鉄道「風祭」駅手前の踏切の所でまた分離、右手へと進む(上左写真)。ここから500mくらい進むと「風祭の一里塚」に到着。 20里「三王原村一里塚」(小田原)の次,江戸から21番目の一里塚である。「小田原の道祖神」と書かれている標木が目立つが、写真の後方の説明板には一里塚と書かれている。一里塚は男塚と女塚、それが街道の左右に対で置かれ、塚に木が植えられ木陰の休憩場所とされたとある。ネットの情報で調べてみると、この風祭の実際の一里塚は10数m戻ったところにあって、明治の12年に塚の木は切り倒されたらしい。


 その後、旧東海道はなんとなく昔に戻ったような雰囲気となる(上左写真)。道幅も狭く、左右に建造物も見えない。左側の木々がまぶしい太陽をさえぎって、涼しくしてくれる。足の下はコンクリートだが、なんとなく江戸時代を歩いている気分にさせてくれる。


 しばらく昔の気分で歩くと、「長興山」の入口に到着。そこには「六地蔵」がある(上右写真)。この六つの地蔵には「寛永」「慶安」「寛文」などの年銘が記されており、江戸時代初期の石仏だそうである。

 この「長興山」の入口は、箱根登山鉄道「入生田」駅の近く。ちなみに、この駅「いりうだ」と読む。近隣の交差点やバス停は「いりゅうだ」と読む。


 旧東海道は 箱根登山鉄道の踏切を渡り、東海道1号線と合流。しかしまたすぐに分離し、雰囲気ある旧東海道となる(上左写真)。その後また 東海道1号線と合流する。


 箱根登山鉄道「箱根湯本」駅の手前500mに「三枚橋」がある(上右写真)。直進するのが東海道1号線であり、左折し「三枚橋」を渡ることで旧東海道は続いていく。


 10分(800m)ほど進んで、出て来たのがこの「門」。上には「山湯金」(右から読むと金湯山)の書があり、「早雲寺惣門(薬医門)」と説明板に書かれている。めちゃめちゃ風情のある雰囲気、良い気分となった(上左写真)。


 この門の奥にあったのが「早雲寺」(上右写真)。後から調べると、1521年に北条早雲の遺言で創建されたと伝えられる寺。寺には「北条早雲」から五代の墓がある。1590年には「豊臣秀吉」がこの「早雲寺」に入り本陣としたと言われる。江戸時代の「一里塚」より古い話である。


 寺の「鐘楼」(上左写真)は屋根が茅葺きとなっており、鐘は鎌倉時代末(1330年)に鋳造された古鐘だという。豊臣秀吉が小田原攻めの時、石垣山一夜城で使用したものと言われる。


 本堂の裏にあるのが「枯山水石庭」(上右写真)、江戸時代初期に造られたという。奥に見えるのは「開山堂」、その裏の自然林を借景とした素晴らしい風景の庭である。



「早雲寺」から7分、600mほど進むと「茶屋の道祖神」がある(上左写真)。この男女双体像の道祖神であるが、手をつなぎ寄り添っている。」だから「仲睦まじい道祖神」として親しまれているらしい。


 そのちょっと先に「一里塚」がある。この石碑には「旧箱根街道一里塚跡の碑 江戸から二十二里」と書かれている。ここは「湯本茶屋一里塚」と言われるモノであるが、家と家の間にあり、見逃しそうであった(上右写真)。


「一里塚」から100mほど進み、右手下の方に進むと「猿沢の石畳道」が出てくる(上左写真)。しかし石畳道への入口が非常に解りづらい。途中から下の温泉街へと進む道に分かれている。石畳道の出口には案内板がある。「この先から約225メートルはその面影を残しており国の史跡に指定されている」と書かれていた(上右写真)。短いが、確かに江戸時代の面影を感じる石畳道。


 登り坂を30分くらい2kmほど進むと「須雲川」という江戸時代初め頃にできた集落に入る(上左写真)。その手前には「道祖神」があり、和ませてくれる(上右写真:隣にちっちゃなカエルの石像あり)


 集落「須雲川」から1.3km、25分ぐらい進むと「箱根旧街道入口」が現れる。舗装された自動車の道から山の中への石畳へと入ってゆく。ここは「大澤坂」と呼ばれる坂(上左写真)。別名「座頭転ばし坂」とも言われるらしい。この石畳は緑色が濃くなっている。これは苔むした石畳で大変に滑る(上右写真)。案内板には「往時をしのばせてくれます」なんて書かれていたが、何回も転びそうになり、昔をしのぶどころではなかった。



 何とか石畳の坂道を登って行き「畑宿」の街の外れに出る。そこから100m先に「本陣跡」、屋号を「茗荷屋」と呼ばれた名主の本屋敷跡がある(上左写真)。「畑宿」は、箱根「寄木細工」の里として有名な処。「本陣址」300mほど進んで行くと「一里塚」の入口がある(上右写真)。


 「畑宿の一里塚」は左右の塚、樹木とそろっている素晴らしい一里塚(上左右写真)である。しかし明治時代にその一部が削られてしまったらしい。そして2001年に往時の様子に復元されたもの。江戸時代のように左右の一里塚の間を通って進んでゆく(上中写真)。



「畑宿の一里塚」から山の石畳の旧東海道(上左写真)、732号線に合流、交差した階段路となる旧街道が始まる。「橿木坂(かしのきざか)」「猿滑坂(さるすべりざか)」「追込坂」」などの名前が付いた処がある(上右写真)。


 あるいは「箱根七曲り」と呼ばれる処では、車が通る道の脇に階段があり、それを上って次の曲がりにでるという道がある(上左右写真)。この「七曲り」、実際は11曲りあるらしい。そして「甘茶茶屋」に到着。


 東海道の箱根地域、湯本から箱根関所の間は「東坂」といわれ、道が大変けわしく、江戸時代の旅人が普通一日10里は旅するところ、ここでは8里しか歩けなかったらしい。1901年(明治34年)の唄歌「箱根八里」(滝廉太郎作曲/鳥居忱作詞)でも「箱根の山は天下の険(けん) 函谷関(かんこくかん)も物ならず(「険」は山がけわしいこと、「函谷関」は中国の長安と洛陽の間にあった関所)」とその厳しさが唄われている。


 その旅人の疲労回復のために「甘酒」をふるまう茶屋が設けられるようになったという。当時は「東坂」全体で9カ所、この辺に4軒があったという。明治13年(1880)、国道1号線が開通すると街道を歩く人が減少し、この1軒だけとなったという(上左写真)。国道1号線が開通というと、自動車がどんどん走ったように感じられるが、自動車がヨーロッパで走り始めるのが1880年代中頃であり、日本にはまだ自動車はない。日本の初自動車走行は明治31(1898)年であり、この頃は国道1号線といっても歩く人だけなんだろう。


「甘酒茶屋」隣の無料で利用できる箱根旧街道休憩所(上右写真)、私一人で誰もいない休憩所で、コンビニで買ってきたサンドウィッチで昼食15分。


 現在の「甘酒茶屋」、その裏側が旧東海道となっている。そこを400mほど進んでゆくと現在の東海道732号線に出て、それを横断して旧東海道石畳へと入ってゆく(上左写真:登ってきた坂を振り返る)。坂を登り続け「天ヶ石坂(てんがいしざか)」という処に出る(上右写真)。ここには「天蓋(てんがい)石」と呼ばれる8尺(2.4m)四方の巨石があった。「天ヶ石坂」とは「天蓋石坂」が変化したようである。ちなみに「天蓋」とは仏像などの上にかざす傘状のもののこと。


 石畳を750mほど登り「権現坂」に到着(上左写真)。この案内板には「小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです」と書かれている。

 この赤い鳥居は急坂に繋がっており、登るのが大変そうだったのでその先には行かなかった。後から調べてみると、鳥居の先には小祠(小さなほこら)があるらしい。あるHPサイトでは、地図にも神社庁にも登録がないが、『新編相模国風土記稿』にはある「山神神社」に相違あるまい、と写真付きで報告されていた。山の神様を祀る「山神神社」、よく調べる人がいるもんですね。


 平安時代以前の東海道は「御殿場」から「足柄峠」を越えるルートであったが、富士山の噴火によって閉ざされ、鎌倉時代の東海道は「湯坂路」と呼ばれる鎌倉古道であった。この道は、小田原方面から現在の「箱根湯本駅」前の国道1号線を進み、箱根駅伝中継で有名だった「函嶺洞門」( 今は通行禁止)、その手前から山に入り、「浅間山」「鷹巣山」の尾根を通り、「芦之湯温泉」の手前で国道1号線と再度合流し「精進池」を通り「箱根権現」へと下るルートであった。東海道は江戸時代の初め、尾根伝いであった「湯坂路」に替わり、谷間の路を整備したものである。この「権現坂」辺りで江戸時代の東海道と「湯坂路」が交差するらしい。ちなみに「湯坂路」は現在、ハイキングコースとして整備されている。


「権現坂」からほぼ全行程、下り坂となり650mほどで「芦ノ湖」の湖畔に到着。この「元箱根」の箱根神社一の鳥居の横にあるのが「塞の河原」(上右写真)。この辺は地蔵信仰の霊地として、江戸時代に東海道を旅する人々の信仰を集めたという。その頃は多くの石仏、石塔が湖畔に並んでいたらしいが、明治になってからの神仏分離、仏教排斥によって石仏が失われ、現在のように規模が縮小してしまったらしい。今は箱根町指定の遺跡である。


 「一里塚」の先から「箱根旧街道杉並木」が出てくる(上左写真)。この旧街道は「箱根関所」まで550mほど続く。おおきな杉の木に囲まれ江戸時代の雰囲気がある。歩いて行くと、杉の間から「芦ノ湖」「富士山」「箱根神社平和の鳥居」、そして「箱根海賊船」が見える(上中写真)。江戸時代は芦ノ湖と富士山だけだったであろうが、よい景色である(箱根神社の赤い水中鳥居は昭和27年に建立)。そして「箱根関所」に到着(上右写真)。


 これにて「HP 開局6周年記念旧東海道⑤小田原-箱根」終了。このあとはNews 「旧東海道 その20 箱根関所-山中湖」、現在は「旧東海道 その30 丸子-岡部」まで続いています。


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 「賽の河原」からちょっと進むと道の反対側に「身代わり地蔵」がある(上左写真)。平安時代の末期、有名な武将が箱根を通りかかった時に、何者かに襲われたそう。当時、ものの言い方が上手く、人をおとしいれたある武将と間違われたらしい。その時、かたわらにあったこの地蔵が身代わりになって、命が助かったという。


 そこから200mほど進むと「葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚」がある(上右写真)。「葭(よし)」とはイネ科の多年草で「アシ」とも呼ばれる。かつては、この植物が生えた「原っぱ」であったなのだろう。ここは江戸から24番目の一里塚である