旧東海道 ⑦ 三島〜沼津〜片浜〜吉原

 

旧東海道 その22 三島-沼津-片浜

2025年12月30日火曜日

  旧東海道西方面巡りは「箱根越え」を終了したのでウオーキングスタートまではJRで進む。「二宮」駅から東海道線で「熱海」へ。そこで列車を乗り換えて同じ東海道線を「関門トンネル」を通過して「三島」駅へと向かう。「二宮」駅から「三島」駅まで約1時間である。10時45分スタート、12kmの平坦地ウオーキングである。

 「三島」駅から約1km、前回終了した「本町」の交差点まで戻る。ここは旧東海道「三島宿」の「本陣」があった処。「本陣」とは大名、公家、幕府役人が宿泊した施設で、ここでは道をはさんで北側に「世古本陣」、南側に「樋口本陣」があった。両方とも残るのは石碑のみ(上右写真:世古本陣跡)。徳川の三代将軍「家光」が「参勤交代」を制定、箱根に関所が設けられ、「三島宿」は「天下の険」箱根越えの拠点として賑わったという。

世古本陣/樋口本陣

時の鐘/常夜灯

宝池寺一里塚

玉井寺一里塚

長沢松並木/智方神社

黄瀬川/沼津領

平作地蔵尊/狩野川

一里塚/玉砥石

川廓通り/沼津城

高田本陣/間宮本陣

大諏訪松永の一里塚


 本陣跡から200mほど進むと「時の鐘」が現れる(上左写真)。これは「三石神社」の境内にある鐘で、昨年10月、「三島:源兵衛川 水中ウオーキング」で訪れた処。江戸時代から「時の鐘」と呼ばれ、旅人や町民に親しまれてきたという。

 「時の鐘」から1kmほど進むと「常夜灯」がある(上右写真)。建立は1846年(弘化3年)で両側に「秋葉大権現」と「富士浅間宮」と刻まれている。両方とも火を鎮める神様。

 「常夜灯」から700m、今回の一番見物の「伏見一里塚」が登場。左右ふたつの一里塚がお寺の敷地に残っており、左側が「宝池寺一里塚」(上左写真)、右側が「玉井寺一里塚」(上右写真)となっている。「宝池寺」の方は1985年(昭和60年)に改修(原寸どおり復元)され、綺麗である。「玉井寺」の方は昔の姿をそのまま残している。

 二つの一里塚を後にして1km、10分ちょっと進んで、眼に入ってきたのが「長沢松並木」。よい雰囲気であるが、残念ながら左側100mで終了。松並木が終わった処、右側にあるのが「智方(ちかた)神社」(上右写真)。松並木の先にある「黄瀬川(きせがわ)」が昔は「伊豆」と「駿河」の国境であり、それを守る神々が祀られた神社という。

 「智方神社」で凄いのが「大クスノキ」(上左写真)。「無念の死遂げた皇子の墓標」という見出しで静岡新聞「ふるさと探訪」で紹介されたという。この皇子とは、足利方に破れた後醍醐天皇の皇子「護良親王」。1335年(建武2年)、鎌倉の土牢に幽閉され、殺される。皇子の側近が密かに「御首(みしるし)」を持ち帰るが、この先の「黄瀨川」の洪水で、やむなくこの地に葬る。その目印に植えたのがこのクスノキ。高さ28m、幹回り7m、根周り18.8mの大木である。有名な作家「井上靖」が旧制沼津中学校に通学途中、腰掛けて休んだと言われている。

 その「黄瀬川」(上左写真)は「狩野川」水系の最大支流で30km。「御殿場」の「中原」辺りから流れだし、JR「御殿場」駅の近くを通り、東名高速「裾野IC」で「久保川」と合流(名前は「久保」に勝、「黄瀬」)、ここ(写真に写っている処)から700mくらい下流で「狩野川」に合流(名前は「狩野」に負ける)。写真に写っているのは上流方向、正面の山は「愛鷹山(あしたかやま)、1188m。その後ろに「富士山」(雲で残念、見えない)。


 「黄瀬川橋」を渡って400mで現れるのが「沼津藩榜示石」(上左写真)。「従是西 沼津領」と刻まれている。1778年(安永7年)に設けられたもの。ここから「沼津領」が始まる。

 「沼津領」に入り1.3kmほど進むと「平作地蔵尊」がある(上右写真)。歌舞伎や浄瑠璃で有名な「伊賀越道中双六沼津の段」、これは「三大仇討ち」のひとつの物語。「忠臣蔵」「曽我」は知っていたが、これは知らなかった仇討ち。それに登場するのが「平作」。義理と人情の複雑な物語でよく解らないが、「平作」じいさんは自害して「仇」の居場所を聞き出し、「渡辺数馬」が有名な「荒木又右衛門」の手助けで仇討ちという話らしい。

 この地蔵尊の後ろの土手、登ってみると向こうは「狩野川」。昔はこの川の畔を旧東海道が進んでいたのだろう。「狩野川」は1958年(昭和33年)の「狩野川台風」で有名である。最大風速75m、最低気圧877hPa、総死者数1269人、凄まじい台風であった。それに基づいてこんな立派な防波堤が作られたのだろう。

 「平作」から150mの処に「一里塚」がある(上左写真)。先ほどの「伏見一里塚(お寺のところ)」から3kmしかなく距離不足であるが,4km(一里)の処が宿場内だったから東方へと寄せて築いたらしい。塚の木は「榎(えのき)」、終戦直後までは昔の木が残っていたが、枯死したために植え替えたという。

 この一里塚の前にあったのが「玉砥石(たまといし)」(上右写真)。1200〜1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石という。石に直線的な溝があり、そこに玉の原石を入れて磨いたらしい。この砥石、いつからこの地にあったかは不明だが、1786年(天明6年)の見聞図には描かれているという。

 「一里塚」から300m先、県道380号と合流しすぐの処で恒例の「ラーメン昼食」。そこから450m進んで旧東海道「川廓(かわぐるわ)通り」(上左写真)へと入ってゆく。この「川廓」という名前は「川曲輪」とも記され、狩野川に面した「沼津城」の城郭に由来しているという。

 「沼津城本丸址」から400m進んでゆくと「沼津宿」の中心辺りに到着。この辺「本町」には本陣(大名、公家、幕府役人が宿泊した施設)が多くあったらしく「高田本陣」(上右写真)、「間宮本陣」「中村脇本陣」などの本陣跡石碑があった。


 「本町」から2km、「千本街道」と「旧東海道」とに左右に分かれる交差点(News一番最初の写真)を右へと進んだ処に「沼津藩領境榜示」がある(左上写真)。先ほどは「従是西 沼津領」であったが,ここでは「従是東 沼津領」、それが明治末期頃に折られて下半分が失われているらしい。「従是西 沼津領」と石質、字体、寸法が同一なので同時に立てられたものらしい。ここから「沼津領」を出ることとなる。

 「沼津領」から出てひたすら歩き、20分後、1.6km先に「大諏訪松永の一里塚跡(石碑)」(上右写真)が出てくる。民家の塀の中から突然現れる石碑、今回のウオーキング、3回目の一里塚との出会いである。

 もう3時間30分以上も歩いているので、かなり疲れた。今回の終点「片浜」駅の手前、旧東海道から離れた処にある「神明塚古墳」(左下写真)に立ち寄るが、眺め、写真撮って、すぐに通過。次回のスタート時この古墳によってみようと思った。そして終点「片浜」駅(上右写真)到着。今回のウオーキングは12km、新記録である。疲れた、疲れた・・・。

旧東海道 その23 片浜-吉原

神明塚

千本松原

松蔭寺-白隠禅師

帯笑圓

高嶋酒造-山岡鉄舟

一本松一里塚跡

六王子神社

立圓寺

増田平四郎の像

妙法寺(毘沙門天)

 「神明塚古墳」から旧東海道に出て1.2km、15分くらい歩いてから海岸の方へと左折する、その先にあるのが「千本松原」その前の通りが「千本街道」(上左写真)である。この松原は沼津市の「狩野川河口」から富士市の「田子の浦港」の間約10km続いている。「千本」とは、1580年の「武田」と「北条」の合戦で邪魔だからと松が伐採され、その後の風害や塩害による農民の被害を哀れみ、お坊さんが約5年かけて「千本の松」を植えたことによる。現在は、なんと30数万本以上あるらしい。この松原を抜けて海岸へと出る。

 松原と海岸との間には高い防波堤があり、その下を車が通れる道がある(上左写真)。海岸の向こうに見えているのは「伊豆半島」である。ずっと先まで松原と防波堤が続いている(上右写真)。ずうっと向こうに見えているのは「静岡市」の方の山である。ここから松原の向こうに「富士山」が見えるよい眺めであるが、残念ながら雲のため見えない。

 旧東海道へと戻り、10分くらい進むと「松蔭寺(しょういんじ)」がある(上左写真)。「松蔭寺」は臨済宗の古寺で歴史は約700年。江戸時代に「白隠慧鶴(はくいんえかく)」という僧侶が住職を務めた。この「白隠」さんは、禅の教えを表した絵を数多く描いた。特に「達磨図(だるまず:禅宗の始祖、達磨大師の図)」が有名である。「白隠」さんは、明和5年(1768年)84歳で亡くなり、このお寺の境内にお墓がある」。

 「松蔭寺」から500m、7分で「高嶋酒造」(上右写真)。なんと、後から知ったのだが、文化元年(1804年)創業、とても古い造り酒屋だった。先の松蔭寺の「白隠」さん、明治17年に朝廷より「正宗国師(しょうじゅうこくし)」という「諡号(しごう:死後に贈られる称号)」を頂くことになる。勅使として「松蔭寺」を訪れた「山岡鉄舟」、出された酒が大変に美味しかったので「白隠正宗(はくいんまさむね)」と命名したという。それを造ったのがこの「高嶋酒造」。因みに「山岡鉄舟」は、「勝海舟」「高橋泥舟」とともに「幕末の三舟」と称されたらしい。彼は身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であったという。

 防波堤を400mほど歩いてから松原へと戻る。この松原の中はウオーキングができるように整備されている(上左写真)。防波堤に近い松原の端に石碑があった(上右写真)。何と書かれているか読めなかったが、横には「安政4年」と書かれていた。160年も前のものだった。

 「高嶋酒造」から400m、5分で「浅間神社」(上左写真)。神社の由来はよく解らなかったが、そこにあった「石碑?」が面白い(上右写真)。石に右から左へと書かれた宣伝?、これが通路の脇に沢山あった。この「カブトビール」、後から調べたら愛知県半田市の「丸三麦酒」で明治31年(1898年)から昭和18年(1943年)まで製造されたビールらしい。戦前の「宣伝石碑」なのだろう。

 「浅間神社」から800m、10分で「一本松一里塚跡」(上左写真)。この一里塚の跡、残念ながら、説明の石碑と看板があるだけで何も残っていない。道の反対側に「道祖神」らしきモノがあるが(上右写真)、これも何かわからない。

 「六王子神社」から300mに「立圓寺」(上左写真:山門)がある。これは万治3年(1660年)に開創された古いお寺。1808年に尾張藩の侍医が泊まった時、お寺の背後に見える富士山を賞して碑を建てたという(上右写真:銅像の後ろの山の向こうに富士山が見える、晴れていれば・・・)

 この残念な「一里塚跡」から3km、何とか頑張って35分、「旧東海道」と「千本街道」が合流する三角形の土地に、本日の予定「ラーメンショップ」があった。あることはあったが、何かおかしい。そう、休業日であったのだ。どうしよう、この辺りに昼食のお店はない。困った状態で歩き続けると「セブン-イレブン」が出現、富士市中柏原店である。とにかくパンかおにぎりを買って・・・と店に入ると椅子2つとテーブルが置いてある。「すみません、レンジしてもらってここで食べていいですか」と聞いてみてOK。「とみ田監修豚ラーメン」510円30円値引き 消費税、店内で食べるため10%、528円を購入しレンジしてもらった(上左写真)。食べ始めると小雨が降ってきた。この「イートインスペース(eat in space)」ありがたいものです。食後、雨は止んできた。あと4.5km、頑張るぞう。


 「セブン」から300mで「東田子の浦」駅、その前に「六王子神社」がある(上右写真)。この神社には「三股の伝説」というのがあるという。昔、深い渕になっている処を「三股」と呼び、そこには龍が住み、毎年少女の「生贄(いけにえ)」を捧げるしきたりがあった。今から400年程前、関東の巫女7人がこの「生贄」のくじを引き、1人が引き当ててしまう。その後、仲間の6人は、悲しみのあまり世をはかなんで身投げをしてしまう。後に村人たちが6人を弔ったのがこの「六王子神社」だといわれている。

 「立圓寺」から400m に「増田平四郎の像」(左上写真)がある。この平四郎さんは、水害から村を救うため浮島沼の大干拓を計画し、明治2年(1869年)に「スイホシ」と呼ばれる大水路を完成させた。しかし、その年の高波で崩壊してしまったという。しかしその後も干拓は続けられ、現在の放水路は、ほぼその当時の位置に建設されているという。

 この平四郎さんの像のすぐ近くに「沼田新田一里塚跡」がある、はずだった。案内の石柱(上右写真)にも「増田平四郎の像・一里塚跡」と書かれている。一里塚跡には平成14年(2002年)、「小さな公園が作られ記念碑が設置」と東海道の一里塚の資料には写真入りで書かれている。しかし、周辺をいくら探してもない。残念ながら、一里塚跡を去る(後からネットで調べると、「探したけれど無かった」という今年のウオークマンの報告が2件あった)。

 無かった一里塚跡から1km、旧東海道は380号戦から170号線へと進んでいく。歩いて行くと面白い消火栓のマンホールがあった(左下写真)。なんと「富士山」と「かぐや姫」が描かれた可愛らしいモノである。富士市には「かぐや姫」伝説が多く残され「かぐや姫」発祥の地とされている。しかしここでは、姫は「月」ではなく「富士山」に帰って行ったといわれるらしい。

 170号線へと入り1.2km、15分ぐらいで「妙法寺(毘沙門天)」に到着(上左写真)。ここが最終訪問地となる。「妙法寺」は日蓮宗の寺院だが、俗に「毘沙門さん」と呼ばれている。開創は寛永4年(1627年)であり、境内には色々な建物がある(上右写真)。写真の左手奥に見えるのが「ネパール式目玉堂(地下に150mの洞窟)」、中央奥は「本堂」、右手の奥が「錬成道場」、手前にあるのが「龍神香炉堂」。このお寺、約100年前から始まった「大祭(だるま市)」が有名、「日本3大だるま市」のひとつとなっている。

 ここでしばらく休憩。そして最後の1.2km歩いて「吉原駅」、本日の12.5kmウオーキング終了。そして「吉原」-「熱海」43分、「熱海」-「二宮」34分の電車の旅で戻る。久々の旧東海道、かなり疲れました・・・。

HP案内図へ戻る