旧東海道 ⑧ 吉原〜富士川〜由比(ゆい)

 

旧東海道 その24 吉原-富士川

2025年12月30日火曜日

 旧東海道西方面巡り、前回は11月の「片浜-吉原」12.5kmのウオーキング。今回も「二宮」-「熱海」-「吉原」駅へ。「二宮」から1時間25分、「吉原」10時15分スタート、「富士川」駅まで12.4km、ここではなんと言っても「富士山」を見ながら・・・。



左富士神社

依田橋村一里塚

名勝 左富士

平家越え

袂の塞神石像

本市場一里塚

松岡水神社

富士川橋

岩淵一里塚

「吉原」駅からすぐに171号に出て北へと向かう。左上写真の道の先に見えているのが「富士山」。残念ながら上の方は雲に覆われている。旧東海道はこの富士山に向かった道でなく、横断歩道を渡って左の方へと進む。

 「吉原」駅から1.5km、20分ほど歩いて到着したのは「左富士神社」(左下写真)。この先にある旧東海道の名勝「左富士」にちなんでこの名前となっているが、明治の終わり頃までは「悪王子神社」と称していたらしい。この「悪」とは「強力」という意味らしい。同じ名前の神社は京都の下京区にもある。

 その神社の中に「依田橋村 一里塚」と書かれた石碑が建っている(上右写真)。説明版によれば、この一里塚は江戸時代に三度所替えをしたらしく、現在そこは民有地となっているので、この神社の境内に石碑を建立したという。この建立、最近らしく、私が旧東海道に行く前に必ず確認する「東海道一里塚」というサイトには「全く痕跡無し」と書かれていたので、何もないと思っていた。


 この神社の500mくらい先に「東海道 名勝 左富士」という処がある(上左写真)。「京都」へと向かって進むときに「富士山」が左に見える処はここしかない。現在は廻りを工場に囲まれており、よく見えないが、写真の正面の建物の屋根の上に富士山の雪をかぶった山頂がわずかに見えている。旧東海道はここの右側にあり、そこを進むと左に「富士山」が見える。

 この「左富士」は江戸時代に災害から逃れるために「吉原宿」が二度も移転した事に由来するという。有名な浮世絵師「歌川広重」の「東海道五十三次 内吉原」にも富士山は進行方向の左側に描かれている(上右写真:左の松の向こうにあるのが富士山)。

 「左富士」から500m、「平家越え」の碑に到着(上左写真)。ここは1180年(治承4年)に源平の戦いで平家軍が陣をかまえた場所。この戦いは昔の「富士川」(現在は、この碑の後ろの和田川辺り)を挟んだ戦いで「富士川の合戦」と言われている。夜間の源氏の動きに水鳥の大軍が飛び立ち、その音に「夜討ちだ」と慌てた平家軍が京に逃げ帰ったという逸話がある。後ろに見えている橋には「平家越え橋」という名前が付いている。この橋から和田川の向こうに富士山がしっかりと見えるはずだが、残念ながら上は雲の中(上右写真)。


 ここから3.5km、約45分はあまり見るものはない。岳南電車の「吉原本町」駅を通り、その先の商店街(上左写真)を直進、「中央駅」という変な名前の交差点を左折してすぐに右折。それから大きな道と合流したり、横断したり、地図を持って行かなかったら迷う旧東海道であった。そしてやっと辿りついた「袂の塞神(たもとのさえがみ)」石像(上右写真)。これは面白いお顔の単体道祖神。いままでの道祖神、小さめの石に2人が刻まれたものが多く、こんな大きくて1人の道祖神は珍しいものであった。



 昼食後5分くらい進むと「旧東海道跡地」という石碑が広い2車線道路の中央にあった(上左写真)。旧東海道は写真の奥の道、手前から広い2車線道を渡って、石碑撮影後、しっかりと左右を確認して横断(横断歩道は遠かったので・・・)。

 そこからチョット進んで行くと今回2つ目の一里塚(本市場一里塚)の記念石碑(上右写真)が現れる。残念ながら今回、ここまでは2つとも石碑・・・。


 この一里塚から35分(2.7km)、ひたすら歩く。途中、右手の方に「富士山」が見える(上左写真)。雲がだんだんと無くなり、良い富士になってきた、期待できそう。

 396号線と旧東海道が合流、その後分岐するところに「道標」と「常夜灯」があった(上右写真)。旧東海道はこの右手の方に進む。


 再度、396号線に戻り、見えてきたのが富士川の橋である(上左写真)。橋の手前の右にあるのが「松岡水神社」(上左写真)。ここは「富士川渡船場跡」となっている。昔、橋は無かったのだ。


 「松岡水神社」の本堂付近でお休み(上左写真)。そして「富士川橋」450m、約6分のウオーキング(上右写真)。さあ、振り返れば「富士」、見えるか、どうか・・・。


 振り返れば、立派な「富士山」(上左写真)。右側に見えている森が、先ほど休んだ「松岡水神社」。6分歩いて対岸、旧東海道の石碑と富士山(上右写真)。「岩淵」は富士川の渡し場があったことから、宿として栄えたという。


 旧東海道は広い道を横断し、ちょっと高台を進んで行くことになる。約1km、12分後、立派な一里塚(岩淵一里塚)に到着。今回3つめの一里塚。左右、ちゃんとした塚が残っている(上写真)。

 この一里塚から15分(1km)、「富士川駅」に到着、12.4km、5時間のウオーキングであった。駅のホームからの富士山も綺麗なもんです。



旧東海道 その25 富士川-由比(ゆい)

2025年12月30日火曜日

 旧東海道西方面巡り、「片浜-吉原」12.5km、「吉原-富士川」12.4km、今回は「富士川-由比(ゆい)」9.4km、ちょっと楽かも・・・。今回も「二宮」8時55分スタートし、「熱海」-「富士川」駅へ。「富士川」駅スタート10時20分のウオーキング。

中之郷

蒲原(かんばら)宿

 東木戸

 蒲原一里塚

 西木戸

由比(ゆい)宿

 由比一里塚

 由比本陣公園

 正雪紺屋

 「富士川駅」から前回歩いた旧東海道の最終地点まで350m、5分くらいで到着。そして振り返ると見事な「富士山」(上左写真)。今日も天気は良い。この辺りは「吉原」の宿境から一里三十町(7.2km)、「蒲原(かんばら)」の宿境まで二十三町(2.6km)の「中之郷(なかのこう)」という(上右写真)。


 東名高速道路をくぐり、ちょっとした坂道(上左写真)を登ってゆく。約1km、12分ほど歩いて出現したのが「秋葉山」と書かれた常夜灯(上右写真)。「秋葉山」という山が近くにあるかと地図で探したがない。ネットで調べると「秋葉山(あきはさん)」は浜松市天竜区にある山で「秋葉神社」があるという。火防の神と知られる「秋葉神社」を信仰する人が集落単位で建立してきたのが「秋葉山常夜灯」。この庶民信仰は江戸時代に盛んとなり、東海から関東地方にかけて常夜灯が建てられたらしい。そう言えば、前回の富士川を渡る手前の処で紹介した常夜灯、Googleのストリートビューでよく見てみると「秋葉山」と書かれていた。因みにこの「秋葉山」、東京の「秋葉原」の地名由来らしい(「秋葉っ原」)。


 常夜灯から500mくらい、坂が急になった道を進み、振り返ると綺麗な「富士山」(上右写真)。写真の右下は東名高速(東名高速と富士はこのNewsの最初の写真)。

 東名高速の上の橋を渡り、そこから今度は下り坂(上中写真)。この辺りはもう静岡市(清水区蒲原)。700m、10分ほど歩いて到達したのが「蒲原一里塚跡」(上右写真)。江戸日本橋から数えて38番目のもの。本当の塚は元禄12年(1699年)に大津波で流され、ここに移されたらしい。後ろの鳥居が何であるかは不明。


 そこからチョット進むと「北条新三郎」の墓の入口(上左写真)。坂を登ってゆくと墓が現れる(上中写真)。この新三郎さんは「蒲原城」の城主だった人。永禄12年(1569年)に「蒲原城」は武田軍の攻撃で落城。城主の新三郎さんは城から1.5kmほど離れたこの付近の寺まで逃れたが、そこで自害。写真に写っている大きな樹木の根っこは下の岩をつかみ込んでいるようで、何か新三郎さんの怨念を感じる。

 そこからまたチョット進むと「蒲原宿」の入口。次の「由比(ゆい)宿」の宿境まで三十九町(4.2km)と案内版に書かれている。この宿の東の入口には木戸が設置され「東木戸」と呼ばれていたらしい。ここにある「常夜灯」(上右写真)は、その横には「宿内安全」と刻まれて、宿の入口を照らしていたという。この「常夜灯」は文政13年(1831年)に造られたらしい。


 「東木戸」から先には様々な古い建物が残っている。まずは「渡邊家土蔵(三階文庫)」(上左写真)。これは材木を商っていた渡邊家の三階建ての土蔵であり、天保9年(1838年)に上棟したもの。次は、なまこ壁の「塗り家造り」の家(上右写真)。「塗り家造り」は防火効果が大きくて江戸時代末期以降に広まったという。


 その斜向かいの方にも「塗り家造り」の家(上左写真)。古い家が連続して残っている街道である(上右写真)。


 その街道をちょと右折して60mほど進むと「蒲原 夜之雪記念碑」がある(上左写真)。碑の右下にある浮世絵(News目次に掲載)、広重の東海道五十三次「蒲原 夜之雪」が、昭和35年(1960年)に「国際文通記念切手」として発行されたのを記念として造られたらしい。この切手、昭和33年(1958年)から「京都」「桑名」「蒲原」「箱根」「日本橋」と5年間発行された。「蒲原」は一時期非常に高い値段が付いた。だから私は、他の4箇所の切手を保持しているが、「蒲原」は手に入らなかった(昔の話)。平成9年(1997年)から広重の東海道五十三次の切手が再度発行されるようになり、昨年で全部が出されたようである。

 元の旧東海道に戻る。さっきの写真の右手に見えていたのは旅籠「和泉屋」である(上右写真)。天保年間(1830〜44年)の建物で、安政の大地震でも倒れなかったらしい。二階の櫛形(くしがた)の手すりなんかに江戸の面影がある。


 その向かいが「本陣跡」(上左写真)。勅使、大名、公家が宿泊した大旅籠。それからチョット進むと「磯部家」(上右写真)。これは手づくりのガラスと総欅(そうけやき)の家として有名。建築は明治42年(1909年)である。日本の板ガラスの生産開始が明治40年なので、二階の波打つ面の窓ガラスは国産か輸入か不明らしい。


 そのちょっと先には「志田邸」(上左写真)。ここは味噌や醤油の醸造の商家。安政元年(1854年)、大地震の直後に再建されたもので国登録文化財となっている。その先150mを左折し、150mで県道396号線と合流、そこにあるのが「西木戸」(上右写真)。これにて「蒲原宿」終了、ここにも木戸が設置されていたらしい。


 ここから2.6km、30分ほどひたすら歩く。途中、JR蒲原駅付近で昼食(恒例のラーメン)の予定だったが店が臨時休業。近くのコンビニでパンを購入し、JR蒲原駅の待合室(なんと3人くらいが座れるベンチがひとつだけ、でも電車を待つひとが殆どいなかった)にて昼食。


 その後、「神沢」という三叉路で県道396号線から左手へ。400mほど進むと「由比一里塚」の跡(上左写真)。その150m先に「由比宿東 枡形跡」(上右写真)。「枡形(ますがた)」とは何かというと、昔の宿場の出入口は「枡形(かぎの手)」に折れ曲がって木戸が造られていたという。万一の攻撃を防ぐための治安維持である。ここから「由比(ゆい)宿」が始まる。


 「由比宿」に入って500mほど進むと「由比本陣公園」(上左写真)がある。ここは本陣の跡地を整備した公園で(本陣そのものは明治に取り壊し)、中には「東海道由比宿交流館」「東海道広重美術館」がある。公園の入口には「表門」「常夜灯」「石垣」「木塀」が再現されている。写真の奥に見える高い建物は「物見塔」。


 この「表門」のちょうど向かいにあるのが「正雪紺屋(しょうせつこうや)」(上右写真)。これは慶安4年(1651年)の「慶安の変(由井正雪の乱)」の首謀者として有名な兵学者「由井正雪」の生家と伝えられている染物屋。この乱は徳川幕府の転覆と浪人の救済を目指したものだが、密告により計画が露見し、正雪は「駿府」で自決することとなる。



 そのちょっと先には「弥次喜多」の「弥次さん」が迎えてくれる「おもしろ宿場館」(上左写真)。施設の中には「喜多さん」がいて「生桜エビのかき揚げ」が食べられるらしい。そして「由比川橋」(上右写真)を渡る。


 「由比川橋」から1.6km、20分ほど歩くと「由比桜えび通り」という看板(上左写真)。この左手がJR「由比駅」で本日の旧東海道ウオーキングは終了となる。そして振り向けば「富士山」(上右写真:近い山の左手)。


 次回は「桜えび通り」の先に見える「薩埵(さった)峠」へ。そこからの「富士山」の眺めは旧東海道No.1とされ、広重の浮世絵でも有名。果たしてウオーキング当日、「富士山」が見えるか・・・?

                   

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