スポーツまいんど その1
スポーツまいんど その1
新たに始まった「スポーツまいんど」というコラムです。私の著書「体育・スポーツの哲学的見方」(東海大学出版)にも同じコラムがあります。その書籍には次のように書かれています。
かつて朝日新聞に「スポーツマインド」というコラムがあったが、これはそれを模したものではない。このコラムはそれ以前に、サラリーマン向けの書籍として出版が計画され、出版社の事情で出版が中止となったものを再編集、加筆して掲載したものである。
このサラリーマン向けの書籍出版は今から15-6年前、20世紀末から21世紀の初め頃の話です。2000年の年賀状に「今年(20世紀最後の年)は本(仮タイトル:スポーツまいんど)を執筆します」なんて書いてあります(ちなみに21世紀は2001年から始まりました)。出版中止はとても残念な話でした。このような始まりのコラムですが、私の著書「体育・スポーツの哲学的見方」と同じ内容のものをここでは掲載してません。この著書を編集した時に加えることの出来なかった内容を再編集、加筆したもの、あるいは新作物を掲載します。
◎スポーツすることの意味
「どうして山に登るのか」という問いに対しては「そこに山があるから」と答えるのが定番。では、「どうしてスポーツをするのか」、やはり「そこにスポーツがあるから」、正解。正解が出てしまうと、スポーツを哲学することはできない。もう少し考えてみよう。
車や恋人、女房・夫は換えられても、あなたの「身体(からだ)」は換えられない。まあ、最近は臓器の移植などが進み、ある部分は取り替え可能となったが、車のように下取りに出して新しいものと交換することは不可能。あなたのその「身体(からだ)」は、若干の改造や修理をしながら保持していかなければならない、死ぬまで。このように「身体(からだ)」は人間にとって重要なもの。その割には、動く「身体(からだ)」について考えることは少ない。子どもが幼いときには、立った、歩いたと騒いでいた親たちも、子どもが、逆上がりができたといってそんなに喜ぶことはない。
つまり一般的には、基本的動きをマスターしてしまうと急速に、動く「身体(からだ)」への関心が薄れてしまう。しかし人間は、窓を開けるのも、電車に乗るのも、手紙を書くのも、全てこの動く「身体(からだ)」を道具としている。しかし空気のように、その重要性を普段は考えることもない。怪我をしたり、年をとったりして初めて、その「意味」が解るのである。骨折して松葉杖のお世話になった時、ぎっくり腰で動けなくなった時、道具として利用していることを思い知らされる。そして動く「身体(からだ)」の意味とありがたさを考える、その時は・・・。
この、動く「身体(からだ)」を積極的に活用すること(つまりスポーツをすること)によって人間は、新たなる世界を経験できる。例えばジョギングの躍動感、そして心地よい疲労、逆に苦痛。テニスを楽しんだ後の、あの何とも言えないリフレッシュ感、そしてその後のビールの最初の一杯・・・(これはちょっと違う「世界」かもしれない)。そして泳いだ後のあの爽快感とけだるさなど、自分自身の「身体(からだ)」の新しい世界を経験できる。あるいは今、流行(中・高齢者)のプールでのウオーキングで知るあの水の重たさ、遠泳なるものをやったことある人(あるいは海で流された経験のある人:これはスポーツではない)が知ることのできる潮の流れの速さ、早朝ジョギングの最中に吹き抜けるあの風の冷たさ。このように様々な物質たちが、普段とは違う顔を見せてくれる世界もまたスポーツによって経験できる。
また、何人かの人間の集まりの中でスポーツをすることによって、そこには普段の生活とは異なる役割や人間関係が生まれる。会社ではこき使われている若者が、スポーツの場ではリーダーとして活躍する役割を与えられるかもしれない。あるいは部下に辛く当たっている中年のおじさんが、みんなのためのマネジャー役をかって出るかもしれない。このように新たなる社会的な経験の世界が開けてくる。そしてその世界の中で、自分自身について経験することができる。例えば達成感、自ら設定した目標に到達することによって、さらなるチャレンジへと向かうことができる。あるいは挫折感、上手く運動できなかったり、試合に負け続けたりすることによって、そこから逃避してしまうかもしれない。これもまた、自分自身についての経験であり、意味のあること。
このようにスポーツには、新たなる世界を経験できるという意味がある。だから、1500メートルを10分かけて走ったとしても、そこにはその人間にとっての意味があるわけで、下手でも、試合に負け続けたとしても意味がある。「より速く、より高く、より強く」だけがスポーツすることの意味ではない。スポーツマンは、このような新たなる世界を日々経験し続けている。「元気のいいこと」も「大きな声で挨拶ができること」もこの経験の賜。しかし、それだけではないはず。新たなる世界を日々経験するということは、新たなる人間に日々成長しているということ。しかし、経験が成長に結びつくのには条件がある。それはその経験の意味を知ること。「刺激—反応」という学習は犬でもできる。この条件を満たしたとき、スポーツマンは進化し続ける(ことのできる)人間である、といえる。それがスポーツマンの意味。