スポーツまいんど その104

◎昔のすぽると55 テニス日本人初グランドスラム4

 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」に1918年(大正7年)8月-「熊谷一弥、全米庭球選手権シングルス準決勝でチルデンに敗れ、全米庭球順位7位」という記事があった。準決勝で敗れたならば、ベスト4となっているのに7位、変な記事である。他の資料で熊谷さんのキャリア自己最高ランキングを調べて見ると全米3位、世界ランキング7位とある.「錦織」なみの活躍である。この記事の典拠文献は「日本体育協会五十年史/日本体育協会」となっているので誤植なのだろう。この熊谷さんのテニス歴史を見てみるとすごい。彼のテニス歴を紹介する。

 テニスが日本に紹介されたのは1878年(明治11年)、熊谷さんが生まれたのは1890年(明治23年)、当時のテニスボールが輸入品で高く、ゴム毬代用の軟式テニスだった。熊谷さんは高校時代には野球、陸上で活躍し、慶応大学に入学。1913年(大正2年)に彼が所属していた「慶応大学庭球部」は「硬式テニス(ローンテニス)への転向」表明、日本人初の硬式テニス挑戦と言われている。

 1915年(大正4年)、熊谷さんは上海で行われた「極東選手権」、シングルス・ダブルス両方で優勝、1916年(大正5年)、「東洋選手権」、シングルス優勝、ダブルス準優勝。そして全米選手権に三神さん(早稲田卒)とともに出場、日本人の最初の4大大会出場者となる。

 熊谷さんは1917年(大正6年)慶応大学を卒業し、三菱合資会社銀行部に勤務し、ニューヨーク駐在員。1918年(大正7年)の「全米選手権」で初のベスト4。これが「近代体育スポーツ年表」に掲載されたニュースである。準決勝ではチルデンにストレートで負けたらしい。

 1920年(大正9年)のオリンピック(アントワープ)では、シングルス・ダブルスで銀メダル、日本人では史上初のオリンピック・メダル獲得である。1921年(大正10年)、日本初のデビスカップ出場、決勝まで行くがアメリカに5戦全敗。熊谷さんは30歳となり帰国。

 1951年(昭和26年)戦後初のデビスカップ復帰、日本庭球協会は熊谷さんを監督とする。アメリカ行って「熊谷、ニューヨークに帰る」とニューヨーク・タイムズ紙に掲載されるが、チームは1回戦でアメリカに全敗であった。1968年(昭和43年)熊谷さん死去、77歳であった。熊谷さん死去から48年後、リオデジャネイロ・オリンピックで「錦織圭」が「ナダル」に勝って銅メダル。熊谷さん以来96年ぶりであった。熊谷さんの銀メダル、紛失して行方不明らしい。

すぽーつまいんどメニューへ  HP案内図に戻る  Welcome  へ戻る