スポーツまいんど その105

◎昔のすぽると56 ある体操教師の死

 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」の1921年(大正10年)、その欄外に変な記事が掲載されていた。「藤森成吉<ある体操教師の死>が《解放》にのる」。一体、何のことやら解らない。今回はこの謎の記事の事実を調べてみた。

 まずは「藤森成吉」という人物。彼は1892年(明治25年)に長野県上諏訪町(現在の諏訪市)の生まれの小説家、劇作家であった。東京帝国大学を卒業後、講師として岡山に赴任するが、半年で辞職して作家活動に入ったという。「ある体操教師の死」とは小説の題名で、《解放》とは大正期、昭和前期の雑誌である。「近代体育スポーツ年表」では1921年となっているが、実際は1922年に発表された短編小説。明治末期から大正中期にかけての中学校(旧制)の体操教師を題材とした作品。「藤森成吉」はこの作品を次のように語っている。

 「大正十一年六月作。七月「解放」へ載せて好評を受けた物。これは、出身中学校の実際の教師をモデルにした。その教師から私自身も体操を教えられたが、然し彼の死んだのは、私が卒業してからずっとあとだ。死報さえ何年か経って知り、その談話者(若い卒業生)の談話から組み立てた。」

「ある体操教師の死」にはこんなことが書かれている。

 ある山国(信州)の中学校で体操(現在は体育)科を受け持つ木尾先生は「まるで生真面目と厳格と熱心そのもののような」教師であったが、風采の上がらないことから、「ペッカア(啄木鳥)」というあだ名をつけられ、「どの生徒からも馬鹿にされ」ていた。また、彼には「何の学問の背景」もなく、「給料は職員中で一番低かった」ことも、生徒たちから軽んじられる原因となっていた。

 以下、こんなことも・・・

 「体操なんず、一体何の役に立つだい、そんなものを、誰が真面目になってやらずい」という生徒たちからの軽侮や反発。

 「痩せて一向肉がなかった。そこへ服装なぞは少しも構わずに、始終まるで軍人でも着るようなごしごししたカアキイ色の詰め襟を着ていた」

 「先生は、まるで生真面目(きまじめ)と厳格と熱心そのもののようだった。赴任の当時は殊に甚だしかった。」かなり「教練(当時の軍事訓練)」が厳しすぎて生徒達は「クラス挙(こぞ)ってストライキを起こして、次の先生の時間に運動場へ来なかったりした。」

 こんな生真面目で几帳面な体操教師「ペッカア」は、器械体操の模範を見せ、湖水でのスケートを練習し名人に、金槌だった彼は少年達に交じって水泳の練習、湖水一周のマラソンも一緒に走り、常に生徒の先。先生の熱心さに感心する生徒もいたが、反って嫌悪した生徒もいた。

 「なんだか。此の頃ペッカァは一向気がなくなったじゃねえか。そうしていやに隠居臭くなって。へえちっと耄(ぼ)けたかな。」と生徒にいわれるように、彼は年寄りじみてきたという。ある日の体操の授業で三段の跳び箱の見本を三回も失敗。その後、学校を休みがち、ついには一年間学校に姿を見せず、免職となる。そして四十台の若さで亡くなってしまう。「ペッカァも可哀想な事をした。散々台を跳び越したりして、あげくの果てに命まで跳び越しちまった。でもあの人のことだで、今ン頃地獄へ行って体操をやってるか。」という生徒達の話があったという。

 「ある体操教師の死」、体育やスポーツに関わる人たちにとって、何となく「ん〜」と考えさせられる話であった。

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