スポーツまいんど その112

◎昔のすぽると63 日本女子体育専門学校

 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」に1926年(大正15年)「3.24(女相撲の興行禁止と同じ日)日本女子体育専門学校設立認可」という記事があった。この学校は1951年に廃止されるが、その後身校として「日本女子体育短期大学」「日本女子体育大学」がある。この学校は1922年(大正11年)創立の「二階堂体操塾」である。それは「二階堂トクヨ」が個人で開設した。今回はこの「二階堂トクヨ」の生涯と学校の変遷を見てみる。

 二階堂トクヨは1880年(明治13年)に宮城県に生まれる。父方・母方ともに会津藩士の家系。彼女は小学校時代「体操(体育)」の授業を受けたことがなく、教師の資格を得るための福島尋常師範学校において「体操」の授業を受けたが、その「普通体操」がつまらなく「時間の無駄だ」と不満を漏らしたらしい。卒業後、教師となるが「体操科を受け持って欲しい」と校長に言われ「体操は義理にもおもしろいとは云えぬ代物」と酷評していた彼女は不本意で大恥辱の「体操」を教えることとなった。そのために「井口阿くり」が講師の体操講習会を受講し「スウェーデン体操」を学んだ。それによって彼女は体操教師へ覚醒したらしい。

 1915年(大正4年)、彼女はイギリスの「キングスフィールド体操専門学校」で学び、帰国し「東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大学)」の教師となり、イギリスの体操や体育界の様相を伝えたという。しかし指導内容や方針を巡って上司や同僚に妬まれ校内で孤立。縁談が破談というトラブルもあり動揺していた。そんな悩みを振り切り、体操塾を開く構想を実現したという。そして1922年(大正11年)、代々木の民家を改修した小さな塾舎で女性体操教師育成を始めたのである。

 1924年(大正13年)に「人見絹枝」が入塾してくる。「トクヨ」は塾でアスリートを育成することを嫌い、テニスをやりたかった「絹枝」は退塾を考えたらしい。岡山県から「絹枝」に陸上競技大会出場の要請が来たことで「トクヨ」は、女子体育の発展にアスリート養成が必要と認識を改めることとなった。その後いろいろとあるが、卒業後「人見絹枝」は 日本人女性の初のオリンピックメダリストとなった(残念ながら24歳没)。塾は女性アスリートの養成機関を兼ねることとなり、また重要な教材としてダンスを採用し、女性らしい健康な心と体づくりの教育を施すこととなった(「人見絹枝」に関しては1928年のオリンピック紹介で語る予定)。

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