スポーツまいんど その118

◎昔のすぽると69 大日本東京野球倶楽部創立

 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」に1934年(昭和9年) 12月26日、「東京巨人軍の母体、(株)大日本東京野球倶楽部創立」という記事があった。この年の11月に「全米選抜野球チーム」が来日し、全日本チームと全国各地で対戦した。全米には「ルー・ゲーリッグ」「ベーブ・ルース」が参加し,18戦全勝であったらしい。有名な試合は静岡の草薙球場で行われた試合、全日本の投手「沢村栄治」は「ルー・ゲーリッグ」の本塁打1本、好投を見せるが1対0で敗戦だった。

 そしてその時の全日本チームのメンバー中心の19名で「大日本東京野球倶楽部」が創立された。この日を巨人は「巨人軍創立記念日」としている。選手は「沢村栄治」、そして後に巨人軍監督となった「三原修」「水原茂」などがいた。

 翌年の1935年(昭和10年)に「大阪野球倶楽部(→大阪タイガース)」が設立、次の年には「大日本野球連盟名古屋協会(→名古屋軍)」「東京野球協会(→東京セネタース)」「名古屋野球倶楽部(→名古屋金鯱軍)」「大阪阪急野球協会(→阪急軍)」「大日本野球連盟東京協会(→大東京軍)」が設立、日本初のプロ野球リーグとしてのペナントレースが始まったのだ。1936年2月9日、名古屋の鳴海球場で「東京巨人軍」と「名古屋金鯱軍」がプロ野球初の対抗試合を行った。

「沢村栄治」は巨人のエースとして活躍し、1936年の期リーグでノーヒットノーラン、そして巨人軍の初優勝をもたらす。しかし1938年の徴兵によって軍隊に入営、日中戦争(支那事変)に出征、手榴弾投げ大会に駆り出され、右肩を痛める。1939年に除隊となって巨人に復帰する。しかし兵役を通じて往年の力は衰え、1941年に再度招集、1943年に巨人に戻るが肩と肘の故障でサイドスローに転向、次の年には解雇通告を受ける。1944年にまた軍隊へ。年の暮れにフィリピン攻防戦に向かうとき屋久島の沖西でアメリカの潜水艦によって撃沈される。27歳没であった。

 戦後に巨人軍は沢村の背番号14を永久欠番に指定、そして「沢村栄治賞」が設立された1959年には「野球殿堂」入り。2017年2月1日、「沢村栄治生誕100年記念事業」が行われた。でも27歳没、可哀想な出来事だった。


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