スポーツまいんど その12

 

◎何故、スポーツの協会が「体育協会」だったのか?


  来年の4月、「日本体育協会」が「日本スポーツ協会」と名称変更し、「国民体育大会(国体)」も「国民スポーツ大会」に変えるようだ。もともと「日本体育協会」は、英語では「Japan Sports Association」、「国体」は「National Sports Festival」、つまり「スポーツ」という言葉を用いていた(名称変更前である現在でも、日本体育協会のHPの英語版にSportsと書いてある)。この「日本体育協会」の役割は「国民スポーツの振興」と「国際競技力の向上」であり、「体育(身体教育)」ではなくて「スポーツ」が中心なのである。では何故、「スポーツ」でなく「体育」という言葉が使われてきたのか。不思議なこと、今回の「まいんど」は、そのひとつの謎解き。

 「日本体育協会」の始まりは1911年(明治44年)、日本のオリンピック初参加に向けた組織・体制整備の一環として創設された。創設した人は、「柔道」を創始し「講道館」をひらいた、当時の国際オリンピック委員である「嘉納治五郎」。当初は「大日本体育協会」であったが、戦後の1948年(昭和23年)に「大」を取って「日本体育協会」となる。嘉納は、この体育協会の創立を呼びかけた趣意書を書いており、そこには「体育」という言葉が用いられている。例えば、「国民体力の強弱はその国民たる個人及び団体が特に体育に留意すると否とに依りて岐るる(わかるる)」とか、「体育の普及発達を図るべき一大組織を組織し」、「全国の青年をして皆悉く(ことごとく)体育の実行に着手せしむる」など。そして大日本体育協会を組織し、「我が国民体育の発達を図り」、オリンピックへの参加する計画を立てると主張している。ここで述べている内容はどう考えても「スポーツ」なのに、どうして「体育」と言われたのだろうか。

「スポーツ(種目)」が日本に入ってきたのが明治の初め。大学の外国人教師によって「ベースボール」(明治6年)や「フットボール」(明治7年)が紹介された。それらは「スポーツ」ではなく「遊戯」「運動」と呼ばれた。スポーツを紹介した日本で最初の本が「戸外遊戯法 一名戸外運動法」(明治18年)、スポーツの大会名が「競闘遊戯会」(明治7年:日本の運動会の起源)「陸上運動会」、スポーツ雑誌・書籍の名前が「運動界」(明治30年)、「内外遊戯全書」等であった。つまり「sports」という英語を適切に訳した日本語がなかったのだ。だから、「大日本遊戯協会」「大日本運動協会」と呼ぶのは何となく気合いが入らず、身体を鍛えるという意味で「体育」という言葉を用いたのではないだろうか。そして、現在でも続いている「体育」と「スポーツ」という言葉の混乱が始まったと考えられる。

 因みに、嘉納治五郎は「柔道」の創始者、東洋初の国際オリンピック委員であると同時に、東京師範学校(後の東京教育大学、筑波大学)の校長でもあった。「師範学校」とは教員を養成する学校であり、彼は「日本の体育の父」とも呼ばれていた。

 では、日本において「スポーツ」という言葉は、いつ頃から広まったのだろうか。それは、大正に入ってか使われ始めたと言われる。「スポーツ」「スポート」「スポオツ」と表記された。1923年(大正12年)に朝日新聞社が「アサヒ・スポーツ」という雑誌を創刊。これによって一般の国民に「スポーツ」という言葉が広まっていった。明治の初めに「スポーツ」が輸入されてから、その言葉が広まり始めるのに約50年、そしてちゃんとした使い方(「日本体育協会」が「日本スポーツ協会」と名称変更)になるのに145年かかったことになる。なんか、変な話しである。


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