スポーツまいんど その15
◎昔々、スポーツには「アマチュア」があったとさ
その2
スポーツまいんど その15
◎昔々、スポーツには「アマチュア」があったとさ
その2
「アマチュア」の崩壊
ところがその後、いろいろな問題が出現してくる。例えば、旧ソ連や旧東ドイツの「ステートアマチュア」の問題。つまり、これらの共産圏の国では国として選手を養成しているんだから、かれらはプロと同じではないか、という問題。あるいは冬季オリンピックでの勝利インタビューの時に、選手が支援してくれたメーカーのロゴが大きくはいったスキー板を見せる、というような問題。このように、お金に関わる様々な問題が出現してくる。当時の IOC委員長ブランデージ(ものすごく潔癖なひとだったという)が、いろいろと頑張るのではあるが、お金に関わる問題をうまく解決することはできなかった。
そんな中で、1968年にテニスの「ウィンブルドン大会」がオープン化される。つまりプロテニス選手の出場を解禁した「オープン化制度」のもとで開かれる選手権の始まりである。「ウィンブルドン」は1887年から始まった世界最古のテニストーナメントであるが、ここまではプロの選手は参加できなかったのである(テニスのオープン化はその年(1968)の「全仏オープン」から始まる)。
そしてさらに、ブランデージの後任のキラニン委員長の時(1974年)、 IOC はオリンピック参加資格から「アマチュア」の文字を削除し、各 IF (国際競技連盟)の規則範囲内において選手の金銭の授受ができるようになる。ちなみに、その翌年、アマチュアを守り通そうとした元 IOC 委員長ブランデージが亡くなっている。どんな気持ちで死んでいったのだろうか。
1980年、IOC 委員長がキラニンからサマランチに変わってからはこの変化に加速度がつく。1981年にはオリンピックへの参加資格そのものを各 IF (国際競技連盟)に一任する。このようになると、各 IF の大会などで賞金や参加報酬がどんどんと出されるようになっていく。こんな流れのなかで、日本では1986年に「スポーツ憲章」が出される。
「スポーツ憲章」1986年、これが「アマチュア」という言葉が日本のスポーツから消えていくターニングポイント。「スポーツ憲章」の条文は「アマチュア規定」とそんなに変わっていないようにみえる、一見は。しかし、第4条「憲章の適用」、第5条「競技者規定の制定」という条項が曲者。以下の条文である。第4条「憲章の適用」:「 ・・・なお、本会の加盟競技団体の登録競技者に対する規定は、当該団体がその責任において設けるものとする」、第5条「競技者規定の制定」:「本会の加盟競技団体はこの憲章に基づき独自の競技者規定を制定・・・」。
つまり、日本体育協会は逃げたのである。「スポーツを愛し・・・」というようなお題目だけ言って、「勝手にやってくれ」というかのように各競技団体に任せてしまった。そして、これでお金に関する束縛がなくなってしまった。このようにして「アマチュア」は崩壊。そして、「むかしむかし、スポーツの世界ではアマチュアという言葉があったそうな」 という「日本昔ばなし」となる。