スポーツまいんど その23

◎ふたつの「スポーツ」

 

 巨人の星の星飛雄馬に代表されるように(ちょっと古い話だが)、スポーツは目の中に炎を燃やし、血と汗と涙を流してやるものという考えがある。「スポーツ」という活動は一所懸命(つまり、ひとつの処に命賭けて:一生懸命と同じ)、頑張ってやること、という考え。中学や高校の運動部活動などはだいたいがこの考えで、頑張っている処が多い。

  アメリカにスポーツをふたつに分けよ、と言う研究者がいた(かなり昔の話だが)。キーティング(Keating, J.W. )というスポーツ哲学者である。彼は、「スポーツ(sports)」における本来的な目的は「楽しみ(enjoyment)」であるのに対して、「競技スポーツ(athletics)」の目指すものは「勝利(winning)」である。だから、このふたつは相容れないから分けるべきだと主張している。これはなかなか面白い主張で、「スポーツ&レジャー」の研究にとって重要な観点である。しかし、この意見に対して、別のスポーツ哲学者の反論があった。

「バスケットボールの選手が、十分にプレイし、最大限の努力をし、激しく競争し、そして勝利を追求しようしていると仮定してみよう。何故だろうか。なぜなら、彼はまだゲームを愛しているし、競争的なプレイや活動の本物の感覚をまだ楽しんでいるのである。」

 つまり、「競技スポーツ(athletics)」においても、「勝利(winning)」を「楽しむ(enjoy)」ことができるという主張である。このように、勝利を楽しんだり、あるいは楽しみ(度)を勝負するといったようなことも考えられる。これも「スポーツまいんど」という気分に左右される。キーティングのいう「楽しみのスポーツ」を、命賭けて頑張ってやろうとする者が出現しないとも限らない。町の運動会で、異常に張り切って、ゆとりなく、眼を血走らせて楽しもうとするおじさんを見たことがある。本人はそれで満足らしいが、そこには「スポーツまいんど」はない。回りに冷たい風が吹く。

 このように、ふたつの「スポーツ(sportsとathletics)」を分けて考えることは重要だが、活動そのものを「スポーツ(sports)」だ、「競技スポーツ(athletics)」だと規定してしまうと、不都合なことになる。スポーツの目的や意義などというものは、スポーツそれ自体にあるのではなく、そのスポーツを行う人に依ると思う。つまり、あなた(貴男・貴女)が自分自身にとってのスポーツの目的、意義を決定する。

 スキー場で1級や2級の検定試験を目指して黙々と滑るスキーヤーがいる、それもいいだろう。試合に負けて地団駄を踏んで悔しがるプレイヤーがいる、それもまた、いいだろう。雨の日も、風の日も走り続けるランナーがいる、それもまた、素晴らしいこと。しかし、ある意味でスポーツは「真面目になりすぎた」といえる。もっと気楽に、楽しく、ぶらぶら、ゆらゆら、とスポーツすることをできないものだろうか、「スポーツまいんど」という気分で。


スポーツまいんどメニューへ