スポーツまいんど その31
◎「スポーツ」と「遊び」⑤「スポーツを遊ぶ」の意味
スポーツまいんど その31
◎「スポーツ」と「遊び」⑤「スポーツを遊ぶ」の意味
前回、「遊」という言葉の3つの意味の話をした。①「一定の地点にいない」②「自由であること」③「離れる - 戻る」という意味であり、「ぶらぶら」「ゆらゆら」「いったりきたり」というキーワードで表せると話した。このキーワードは「遊びの現象学(西村清和)」に基づいて、私が「遊び心」で昔、考えたもので「曖昧かな」と思っていた。ところが先日、インターネットの「ウィクショナリー(ウィキペディア百科事典の辞書版)」日本語版を見ていたら、「遊」は「游」* の代用字で、その意義(意味)は「①ゆらゆらする ②泳ぐ ③ぶらぶらする ④本拠とする場所から離れる ⑤あそぶ」となっていた。私の三つのキーワードもそんなにいい加減なモノではなかった。(* 印をつけた「游」という文字が映らないかも→「遊」の「しんにゅう」を「さんずい」に変えた文字)
今回はこの「遊」という文字を小山鉄郎さん(漢字学者の「白川静入門」を書いた人)の話を基に考えてみよう。この「遊」という漢字から、「しんにゅう」と「子」を除いた形を持っている漢字には「旅」「旗」「族」などがある。この共通する字形は「吹き流しをつけた旗竿(はたざお)」のことらしい。その字形に「子」を加えた形が「斿」(「遊」から「しんにゅう」を除いた漢字)で、この「子」は人で「吹き流しのついた旗竿を持つ人」を意味している。この旗には一族の霊が宿っており、その旗を押し立てていくことが「斿」であり、その旗に宿る神様の霊が行くこと、気ままに行動することから「あそぶ」の意味となったという。
小山鉄郎さんは、漢字学者の白川静さんが一番好きな文字が、この「遊」であったという。その「遊」は神様が自由に行動するという意味だったが、後に人間が心のおもむくままに行動して楽しむ意味となったのだと話している。この白川博士の生誕地にある記念碑をネットで見てみると、「遊」について次のように書かれていた。
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた」
このように「遊ぶ」は「ぶらぶら」「ゆらゆら」「いったりきたり」という状況であるが、神様の世界との関わりでもある。例えば「言い遊ぶ」「書き遊ぶ」「弾き遊ぶ」「吹き遊ぶ」という言葉がある。これは「あそぶ」ではなく「すさぶ」と読む。言うこと、書くこと、弦楽器を弾くこと、笛などを吹くことを「興じる」ことである。つまり「おもしろがる」、「興(おもしろく楽しいこと)に入る」ことである。そこはゆたかな創造の世界といえる。
「スポーツを遊ぶ(あそぶ)」ではなく、「スポーツを遊ぶ(すさぶ)」と言えば馴染んでくるのかもしれない。