スポーツまいんど その37

◎「身体(からだ)」と「こころ」

        ⑥世界に溶け込む「からだ」

 

 前回、「感性」は「世界」に「からだ」で(つまり、身をもって)かかわる能力であるという話をした。「スポーツ」や「遊び」などの「身体的体験」は「からだ」として世界に溶け込み、ほんとうの「わたし」を感じる体験となる。その体験が 世界に「からだ」で(身をもって)かかわる能力(感性)と大きく関連してゆくのである。

 「スポーツまいんど」の「スポーツと遊び」のコラムで、「遊び」という活動はないという話をした。「ぶらぶら」「ゆらゆら」「いったりきたり」、このような「状態」(気分)になったときその「活動」は「遊び」となり、「活動」そのものが「遊び」ではない、「あそびのこころ」が重要という話。そして、「遊び」と呼ばれている活動は「あそびのこころ」になりやすい活動であり、「あそび」が「状態」(気分)であれば、「仕事」と呼ばれている「活動」を「遊ぶ」こともできるのである。

 「遊び」という状態は、前回述べた人間の「三重のシステム」の「社会」というシステムではなく、普段とは異なる「世界」へと溶け込んだ状態である。「社会」の中で重要な「意識」を中心とした「かかわり方」では「遊び」の状態(気分)になれない。この「社会」とは異なる「世界」に溶け込めること、それによって「遊ぶ」ことができるであり、その「世界」に溶け込めることが「感性」という能力なのである。

 「スポーツ」は楽しいものである。「スポーツ」の試合も楽しいが、それは「社会」というシステムの中の出来事であり、重要なのはその「結果」となる。つまり「勝つこと」という試合の結果が中心となり、スポーツを行っている最中の「楽しい」という経過は重要視されないようになる。前々回、「からだ(身体図式)」は、「他者」の「からだ」、「もの」、そして自分自身の「からだ」と同調(シンクロ)するという話をした。それによって、スポーツの技術が比較的上手く出来るようになり「楽しい」が、「負け」という結果は「社会」というシステムでは認められないのである。

 しかしながら、スポーツを行っている最中には、スポーツの技術が上手く出来、満足感やシンクロしたことによる浄化が生まれることがある。この「スポーツ運動」の瞬間の体験、美的体験は「社会」というシステムから「世界」への溶け込みである。そこは「あっ」とか「おっ」としか言えない言葉にならない世界であり、その瞬間に「からだ」は「世界」に溶け込んでいるのである。

 このように、スポーツにおいての試合に勝ったり、負けたりというのは「社会」というシステムの中の出来事であるが、しかしその最中に言葉にならない「世界」へと溶け込むことがある。そして「からだ」のシンクロは心を浄化し、人間としての存在レベルが高まることに結びつく。それは「社会システム」から「世界」へと飛躍することに他ならないのである。それは「感性」、つまり世界に「からだ」で(身をもって)かかわる能力によってなされるのである。


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