スポーツまいんど その43
◎遠足と運動会④
スポーツまいんど その43
◎遠足と運動会④
「遠足と運動会①」で話したように、「遠足」の始まりは明治10年代後半(1880年代)の「行軍、遠足運動」、隊列を組んで行進して、そこで遊戯や体操を行う「遠足運動会」だった。そして明治19年(1886年)の東京高等師範学校の「長途遠足」(東京から銚子方面へ12日間にわたる徒歩遠足)が現在の「修学旅行」の始まりとされている。今回はこの懐かしくて、私にとっては悲しい「修学旅行」の話をしよう。
「修学旅行」という言葉は、当時の文部大臣「森有礼」の軍隊的要素導入の教育に抵抗した「高峰秀夫」東京高等師範学校校長が、学術研究の要素を取り入れて「修学旅行」と称するようになったことから始まる。初めて使われたのは明治20年(1887年)の長野師範学校(現・信州大学教育学部)らしい。明治28年(1895年)には東京高等師範学校尋常中等科(現・筑波大学附属中高等学校)の全校生徒が「鎌倉」まで歩いて行く1泊2日の「修学旅行」が実施されたという。横須賀線(大船-横須賀)が明治22年(1889年)に開通していたが、徒歩で移動の「修学旅行」である。因みに学校から鎌倉駅までの距離(道路:地図で計測)は53.5km、徒歩で11時間22分(網島街道-県道2号経由/第二京浜-国道1号経由、ともに同じ距離)である。これが片道であるので、2日間で100km以上歩いたこことなる。
昭和に入ってから旧制高等小学校の修学旅行が許可されると、輸送手段として鉄道が使われるようになる。行き場所は「伊勢神宮」「橿原(かしはら)神宮」「厳島(いつくしま)神社」「金刀比羅宮」など。やっぱり日本の神様の処、「国家神道教育」に関連する。昭和18年(1943年)には太平洋戦争戦局悪化によって禁止されることになる(戦争が始まっても1年以上は「修学旅行」続いていたのだ)。
終戦後、昭和23年(1948年)に国鉄が「生徒5割引、引率教員2割引」で学生団体引き受けを開始し、「修学旅行」が再開されて行く。昭和24年(1949年)には「日光」「京都」「大阪」方面に「修学旅行専用列車」が設定、昭和25年(1950年)には「修学旅行集約輸送臨時列車」が登場する。これは「東京」から「京都」「大阪」といった修学旅行の需要の多い区間にダイヤを設定したもの(学校ごとの臨時ではなく予定が組みやすい)、「学童臨」とも呼ばれたらしい。
昭和33年(1958年)には文部省によって、教育課程の位置づけが明確となり「学校行事」と規定される。翌年、修学旅行専用電車が登場し、「ひので」「きぼう」の運行が開始される。私鉄では昭和37年(1962年)に全車2階建車両の「あおぞら」が登場した。因みにこの頃、小学生であった私は静岡から東京への修学旅行であったが、どんな列車だったのかは全く覚えていない。訪れた処は「皇居」「国会議事堂」「羽田空港」「東京タワー」「横浜港」(残っていた記念写真)である。私の中学校の修学旅行は「静岡」から「京都」「奈良」へ。この旅も列車で行ったと思うが、記憶にない。訪れた処は「二条城」「平安神宮」「金閣寺」「銀閣寺」「清水寺」「春日大社」「平等院」「知恩院」「法隆寺」「薬師寺」「唐招提寺」「奈良公園」「興福寺」「東大寺南大門」「東大寺大仏殿」(残っていた記念写真)である。
このように「修学旅行」は歩いて行く旅から臨時電車で行く旅へと変化していった。そして昭和45年(1970年)から「新幹線」による修学旅行が開始され、在来線での「集約臨時列車」が衰退し、昭和50年(1975年)頃にはなくなったという。
最後に、悲しい「修学旅行」の話。それは私の高校時の修学旅行。私の高校では、3年生時は大学受験準備のため、2年生の最後の春休みを利用して修学旅行が行われていた。私の所属したバスケットボール部は、その春休みに新チームの春の大会へ向けての臨時合宿を実施した。そのために、同級生が関西の方面に修学旅行であった時、私は体育館で練習をしていたのだ。つまり「修学旅行」を欠席しなければならなかった。当時は、そんなもんかなあと思っていたが、今から考えてみると、同級生との懐かしい旅ができなかったのだ。・・・・とても悲しい話である。