スポーツまいんど その48
◎すぽると思い出⑤
通学と通勤の最初と最後
スポーツまいんど その48
◎すぽると思い出⑤
通学と通勤の最初と最後
今回は「すぽると」からチョット離れるが、通学と通勤の思い出。まずは「通園」、つまり幼稚園への行き帰り。私の幼稚園は「静岡聖母幼稚園」というカトリックの私立の幼稚園だった。園長さんは外国人のデビス神父さん、マリアさまの像を祈ったりもした。場所は静岡市の「城内町」、つまり「駿府城」の外堀の中、城内なのである。自宅から1.6 km、バス(路線バス)での通園となる。
朝、母親と最寄りのバス停へ行く。バスが来ると母親が、バスの女の車掌さん(バスはワンマンでなく、昔は必ず車掌さんがいた)に料金を払い、幼稚園近くのバス停までお願いをする。私は車掌さんの近くに立ち、バスに乗って進み、停留所にくると車掌さんが優しく教えてくれる。バスを降り、「駿府城」外堀の橋「凱旋橋」を渡り、入城、幼稚園へ。これが私の「通園」の始まりである(最初は何回か母が付き添ってくれたと思うが)。帰りは、なんと1.6km歩いて帰った。いつも一緒に帰ったのが、「キミコ」ちゃんと「クミコ」ちゃん。幼稚園から「キミコ」ちゃんの家まで700m、そこからはふたりで「クミコ」ちゃんの家まで500m、あと400mひとりで自宅へと帰った。当時は車も少なく、ゆったりと歩けたと思う。女の子を選んで一緒に帰ったのではない。たまたま家の方向が同じだったのである。ホントである。
静岡で暮らした時の「通学」で一番遠かったのがこの「通園」である。なんと言っても、自宅から小学校まで40m、中学校まで80mなのである。その短「通学」の状況などほとんど覚えていない。唯一、覚えているのが中学校、歩いている途中で授業始まりのチャイムが聞こえてしまった。道と運動場を必死で走り、教室へ。職員室から出てくる先生よりも早かった。
高校はちょっと遠いが1km、しかし自転車で「通学」できたのでそんなに苦労はなかった。東京での大学への「通学」は遠かった。巣鴨の下宿(3畳)から山の手線「巣鴨」の駅まで歩いて10分くらい。「大塚」-「池袋」-「目白」-「高田馬場」-「新大久保」-「新宿」、そこで乗換、京王線で「初台」-「幡ヶ谷」、下車し歩いて5分。40分くらいの「通学」であった。その後、大学3年生で引越、今度は大学まで歩いて5分の下宿となる。
大学卒業後、「通学」から「通勤」に変わる。下宿も変わり「西武池袋線」の「東長崎」から徒歩10分。正式な就職はしていなかったので「通勤」は非常勤講師2校、バスケットボールのコーチ1校。非常勤は週2回、ひとつは「東長崎」から電車40分「吉祥寺」、そこから歩いて25分の高校。もうひとつは電車で40分「神谷町」、「東京タワー」の真下の中学校。コーチだけは電車10分、近かった。翌年、正式に就職した学校も電車で40分、「通勤」は1時間以上というのが通常であった。しかし東京から離れ、神奈川の大学に勤めが変わってから大激変、歩いて10分の通勤となった(大学の職員住宅)。自宅を構えても車で20分、通勤時間は短くなった。大学では千葉の方から2時間「通学」の学生さん、東京から1時間30分「通勤」の先生方もいたのだ。私は幼稚園での「キミコちゃん」と「クミコちゃん」との「通園(帰り)」は思い出深かったが、小学校、中学校の時の短距離の「通学」が好みのようである。
最後の「通勤」は2016年3月25日、9:00からの臨時教授会出席のため、8:30車で「通勤」。11:00の大学全体の学位授与式、13:00の学部、学科の学位授与式。それが終了後、14:45「通勤(帰り)」、これにて「通勤」終了であった。
現在は60日毎の「通院」。「通勤」最終日の半年前、生まれて初めての救急車で病院へ、緊急手術(くも膜下出血)。その助けてもらった病院に現在も「通院」している。「通園」-「通学」-「通勤」-「通院」、それぞれの「通い(かよい)」に思い出があるものだ。