スポーツまいんど その49

◎昔のすぽると①     富士登山

 
 

 「すぽると思い出」①〜⑤は、私の個人的思い出の話だったが、今回からは日本の「すぽると」の思い出話、「昔のすぽると」としよう。参考文献は「近代体育スポーツ年表」である。

 この参考にした「年表」の最初の記事は1800年(寛政12年)、「[夏]須走口からの富士登山者だけでも5398人に及び、女人登山も許可」というものである。220年前には新聞やテレビがあるわけでなく、この記事は1912年(大正元年)出版の「増訂武江年表(ぶこうねんぴょう)(正編は1850年、続編は1882年に出版)」を典拠(よりどころ)としている。今回は「昔のすぽると」として、この記事となった「富士登山」を取り上げる。

 飛鳥時代には、聖徳太子が黒馬に乗って空を飛んで富士山に駆け上がる、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)が流刑先の伊豆大島から海上を歩いて富士山に登り、朝には戻っていったという伝説がある。その名前は「福慈岳」という語であると言われ、古い文献には「不二山」「不尽山」という表記がある。

 富士山は古代より、山それ自体を神と見立てる山岳信仰、「富士信仰」が行われた。その代表なのは「浅間信仰(冨士浅間信仰)」である。奈良時代から平安時代にかけては、噴火が相次いだらしく富士登山に関する記録は残ってないらしい。平安時代末期から修験者が富士山で修行を行うようになったという。江戸時代になると、江戸の庶民を中心に宗教の団体「富士講」が栄えた。その団体内でお金を出し合い、選ばれたメンバーが講を代表して登山した。また、関東の各地で「富士講」によって富士山に見立てた「富士塚」が造立され、現在も残っている。

 富士山は1872(明治5)年まで「女人禁制(にょにんきんせい)」だったという。「女性が入峰すると修行の妨げとなる」などとされ、入山が許されたのは2合目の「御室浅間神社」までであった。しかし「庚申(かのえさる)の年(60年に一度の年)」は、麓で7日間の修行をした女性は4合5勺の「御座石浅間神社」まで登ることができたという。最初に話した年表の記事「女子登山も許可」1800年は調べてみると、「庚申の年」であり、特別な許可(途中までだが)であったと思われる。女子に許されていた入山の2合目付近は樹木が茂り山頂を拝めないため、山火事で開けた同所を遥拝所にし、そこから山頂を拝んだという。江戸時代の「富士山明細図」には、「女人御来迎場」として、大石と鳥居2基が立ち、山頂と御来光をそれぞれ拝む女性たちの様子が描かれている(下に写真。場所は山梨県富士吉田市、吉田口登山道の2合目の先)。

 1832年(天保3年)には「高山たつ」が日本人女性で初めて登頂、「どうしても富士山に登りたい」という気持ちから、髪を切り男の姿に身を変え富士山に入ったという。彼女を連れて登ったのは、江戸時代に「富士講」の一派「不二孝(不二道)」を広めた「小谷三志」という人物。彼は生涯に161回の富士登山をしたといい、彼が66歳の頃、25歳の「高山たつ」を含んだ6人を同行して登頂したという。外国人では、1867年(慶応3年)にイギリスの行使パークス夫人が登っているという記録がある。山に登ることを目的とする登山は「アルピニズム(alpinism)」といって、18世紀後半から始まったスポーツである。「高山たつ」は登山を楽しむ?「スポーツウーマン」の始まりである。