スポーツまいんど その52
◎昔のすぽると④ 蹴鞠(けまり)
スポーツまいんど その52
◎昔のすぽると④ 蹴鞠(けまり)
参考文献「近代体育スポーツ年表」には1880年(明治13年)、「蹴鞠の復活がはかられる」という「諸芸新聞(この頃の小新聞)」の記事が記されている。今回は、かつて日本で盛んであった、サッカーのように足を使った「すぽると」、明治期に復活が図られた「蹴鞠」を取り上げる。
蹴鞠らしきものは4000年近く前の中国、「殷(いん)」の時代の記録にあるという。日本には600年代に中国から仏教などと共に渡来したという。645年の「大化の改新」、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」の出会いは 飛鳥の法興寺(現在の飛鳥寺)での「蹴鞠の会」であったという(我々は、虫殺す645 大化の改新と習ったが、この反乱「乙巳の変(いつしのへん)」が645年に起こり、それ以降の数年間の政治改革を「大化の改新」という と今は学校で教えるらしい)。
渡辺さんという「蹴鞠」研究者は、16世紀に30年以上滞在した外国人が書いた本に「われわれの間では球戯は手でする。日本人は足を使って遊ぶ」という記述があることを紹介し、「400年前の時点では、ボールを足で扱うことにかけては日本がヨーロッパよりも先進的であったと言えるのではないだろうか」と述べている。「大化の改新」の頃に「蹴鞠の会」が行われていたと言われるように、平安時代には宮廷競技として貴族の間で盛んであったようだ。「清少納言」がその著書「枕草子」(1001年完成)のなかで「様悪しけれど、鞠もをかし(蹴鞠は上品でないが面白い)」と書いているように人気があったのである。
「蹴鞠」の制度は鎌倉時代に完成し、室町時代には将軍の「足利義満」や「義政」が盛んに行っており、武士がたしなむ技芸として「和歌」や「茶の湯」ともに「蹴鞠」が挙げられているという。また、「蹴鞠」の上手な武将を派遣し、教えさせ、「蹴鞠」を仲立ちにした関係強化を図ったこともあるという。「麒麟がくる」という時代劇で「織田信秀」と織田家の人びとが蹴鞠に興じたシーンがあったらしいが、実際、戦国時代に多くの武将が愛好した。しかし「信秀」の息子「織田信長」は「相撲」を愛好し、安土桃山時代には「蹴鞠」の人気は下火になっていったのである。
江戸時代には一般の庶民にも普及したらしく、「井原西鶴」の「好色一代男」には女性が蹴鞠をする姿が描かれているという。しかし明治時代になって日本の伝統文化が顧みられなくなると、蹴鞠も一旦途絶えることとなる。しかし明治天皇は蹴鞠を行い、教えもしたという。最初に話した「諸芸新聞」の「蹴鞠の復活がはかられる」という記事があったように、その後の明治36年(1903年)に明治天皇は「蹴鞠を保存せよ」との勅命をし、その御下賜金により,「蹴鞠(しゅうきく)保存」会が結成されたのである。
「蹴鞠」には勝敗がなく、蹴り易い鞠を相手に与え、共に楽しむのが蹴鞠の作法とされているという。また「うるわしく蹴る」ことが大切で、難しい鞠がきても「のどかに蹴る」ように見せ、面白く蹴るのが重要らしい。これが「鞠道(きくどう)」と言われる「蹴鞠」の「道」、「術」なのである。
8名(又は6名)が1グループとなり、四隅に木(松・桜・柳・楓)が植えられた約14m四方の「鞠庭」で、「アリ」「ヤア」「オウ」という掛け声で蹴る優雅な「すぽると」、こんな「蹴鞠」は素晴らしい「すぽれじゃ」である。