スポーツまいんど その57

◎昔のすぽると⑨  五大公園

 

  参考文献「近代体育スポーツ年表」には1873年(明治6年)の1月、「名勝区・旧跡などの一般大衆遊観の場所に公園設置」という記事がある。そして3月には「五公園決定」という記事が出てくる。「公園」は「すぽると」そのものではないが「すぽれじゃ」に大きな関係がある。今回はこの「五公園」を取り上げて、それは一体、何であったのかのお話。

 1月に明治政府は「明治6年太政官布告第16号」を作成し、「・・・群集遊覧ノ場所・・・公園ト可被相定ニ付・・・図面相添ヘ大蔵省ヘ伺出ヘシ」と定め布告した。その布告文の中には、東京に於いては「金龍山浅草寺」「東叡山寛永寺境内の類」、京都に於いては「八坂社」「清水の境内」「嵐山の類」が例示されている。そして3月に指定された「五大公園」は「上野公園」「浅草公園」「芝公園」「深川公園」「飛鳥山公園」なのである。日本で初めて「公園」という言葉が使われたのがこの時であるらしい。

 この「五大公園」に関して造園の研究者(進士さん)は「これはすべて実は江戸時代の遺産」と述べている。上野の「寛永寺」と芝の「増上寺」は徳川家の菩提寺、浅草は庶民の遊観の場所、深川公園も「富岡八幡宮」の境内、飛鳥山は桜の名所として江戸幕府が直営でつくった花見の場所である。そういう文化遺産、歴史遺産を明治政府は「公園」として与えたのであり、江戸時代に公園という言葉は無かったが、もう緑地はあったと彼は言うのである。

 1873年(明治6年)の布告によって5つの「公園」が正式に指定され、そして1887年(明治20年)頃までに約80カ所の公園が全国で設置される。「松島」「天橋立」「安芸の宮島」=「日本三景」と呼ばれる公園も江戸時代の景勝地である。また「偕楽園」「兼六園」「後楽園」=「日本三大名園」も江戸時代の大名庭園だったのである。進士さんは江戸時代の緑地管理は「なかなか合理的にやっている」と述べている。例えば「飛鳥山」。桜を植えて幕府は花見の場所として公開するが、管理はそこの寺や神社に任せて自力でやらせる。或いは築地の「浜離宮」、ここは「浜御殿」と呼ばれ、「江戸城」から将軍が逃げ出せるようにつくってある(調べてみると、直線距離2km 築地川を水堀として、浜の入口大手門とを結び、「出城」としてつくったらしい)。だから完全な「城郭」であるが、また内部の池や緑で公家をもてなす社交の場でもあった。

 ニュースの記事となった明治6年の布告、それによって「公園」が造り始められたのではなく、江戸の緑の空間が残っており、明治政府はそれを「公園」として制度的お墨付けを与えていったのである。江戸の幕府は、様々な「花と緑と緑地の文化」を広める事を行っており、「公園ライフを江戸の市民がすでにエンジョイしていた」と進士さんは述べ、「空間(Open-space Network)」「景観(Landscape Network)」「自然(Ecological Network)「人間(Communication Network)」と緑との関係という4つの機能を満たした緑地が江戸時代にすでにあったと結論づけるのである。

 進士さんの講演した「日本の近代公園史、緑の東京史」は以下のサイトで読むことができる。江戸—明治から大正、そして昭和の公園にまで詳しい説明がある。興味のある方は是非、御覧下さい。

 ➡ https://www.ejcs.co.jp/library/history/69_kouen.pdf

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