スポーツまいんど その63
◎昔のすぽると⑮ 球投げ場
スポーツまいんど その63
◎昔のすぽると⑮ 球投げ場
参考文献「近代体育スポーツ年表」には1879年(明治12年)の5月、「横浜本港公園内の球投げ場の拡張計画がなされる」という記事がある。この「球投げ場」とは一体何なのか、今回はそれを取り上げてみる。
ある「遊技場」をテーマとしたHPでは、1916年(大正5年)神戸市の統計から「空気銃射的場」5、「球投げ場」4、「玉突場」14と当時の神戸市の「遊技場」の構成を示し、「球投げ場というのは、何か、的に向かってボールのようなものを投げていたのでしょうか」と書いてあった。そんなもんかなあ〜と思いつつ、もう少し調べてみた。すると「明治時代の新聞記事 野球編I」を紹介するHP発見。 それによれば最初の野球記事は1879年(明治12年)年5月30日付,横浜毎日新聞の「横浜の球投げ場-外人が拡張の計画」とするもので,外国人居留地のグラウンド(球投げ場=野球場)拡張案を取り上げたと書いてあった。つまりこのNewsは野球に関する初めての記事であり、「球投げ場」は「野球場」であるというのである。
しかし横浜の外国人居留地はイギリス人が中心であり、「野球場」ではないと私は思った。現在でもイギリスでは「野球」は盛んではない。そこで調べてみると、イギリス人「モリソン」が1868年(明治元年)に「YCC(横浜クリケットクラブ)」を立ち上げ、クリケット場用地を提供するよう日本政府と交渉し、そして居留地265番地近くを提供され、そこに「クリケット場」をつくったという歴史を発見。その後そのクリケット場はさらに広い代替地(現在の横浜公園)に移転し、「YCC」は1880年代に黄金期が訪れたと言われる。このNewsはこ黄金期の1年前であるから、この「球投げ場」は「クリケット場」であったと思われる。Newsの「横浜本港公園内」は「横浜公園」のことなのであろう。
「YCC」をもう少し調べてみると「明治期の横浜公園芝生事情」という「芝草研究」の論文を発見。「YOC」が1868年(明治元年)にクリケット・グランド、通称スワンブ・グランドを造り、その後移転し、グラウンドの拡大を2年毎に行ったとある。そのクラブの総会に報告された資料に1879年(明治12年)の会計のデータが掲載されていた。そして「YCC」は1884年(明治17年)に横浜の「アスレティック」「ベースボール」「フットボール」のクラブを統合し、「横浜クリケット&アスレティック・クラブ(YC & AC)」が設立されたと記している。その間に「YCCクリケット」とは異なる「芝種」の変更が行われたという芝草研究の話があった(難しい)。最終的に論文は、「横浜公園クリケット・グラウンド」も「山手公園ローン・テニス・コート」(昔のすぽると⑫で報告)も日本人グラウンド・キーパーの手によって維持されたと報告している。
「野球」はどうであろうか。日本では1871年(明治4年)、アメリカ人ウィルソンが「東京開成学校(現在の東京大学)」で教えたのが始まりとされている。その後、全国的に広まってゆくが、その名前は「打球おにごっこ」。別の資料では1886年(明治19年)に刊行された「小学遊戯法」という教科書に「打球鬼(ベース、ボール)」と書かれていることを紹介していた。「野球」という言葉が生まれたのは1894年(明治27年)、「中馬庚(ちゅうまんかなえ/ちゅうまかなえ)という「第一高等中学校」の野球部員であり、彼は卒業にあたって部史を刊行することになり「Ball in the field」を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明したという(この頃のベースボールの訳語は「底球」なであり「庭球」と紛らわしかったらしい)。彼はその後「東京帝国大学」に進学し、野球研究書「野球」を著作した。明治の野球大好き俳人「正岡子規」が「野球」という言葉を作ったという俗説を信じていたが、間違いだったのだ