スポーツまいんど その65

◎昔のすぽると⑰  木製自転車

 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」には1879年(明治12年)の欄外に、「梶野甚之助、横浜に自転車工場を設立、木製自転車を製造」という文章が掲載されている。前回と同じく典拠は「明治世相編年辞典」である。今回はこの「梶野」という人物と製造した「木製自転車」を取り上げる。

 「梶野甚之助」は安政3年3月25日(1856年)に相模国の津久井郡大井村に生まれる。8歳の時に父親と死別し、醤油業の「丁稚(でっち)」となり、住みこんで働く。20歳頃に「横浜灯台局」に勤め、その後、横浜市蓬萊町(ほうらいちょう)に製造所を設立。作ったのは「木製の前輪駆動二輪車」と「三輪車」。

 この「梶野甚之助」に関しては不明な点が多くあり、例えば「日本自転車史研究会」のブログ「わだち」には、「梶野甚之助は梶野仁之助が正しい」と書いてある。国立国会図書館のページに、「(東京朝日新聞の記載には)梶野仁之助は、甚之助と記載されている可能性がある」という意見が載っている。「特許庁」の「意匠制度120年史年表」(2009年)の「社会・文化」の欄に「1879年 明治12  梶野甚之助、木製自転車製造」と書かれている。さらに二人の自転車の研究者の論文には「梶野伊之助」と記されていた。「甚之助」「仁之助」「伊之助」、よく分からないので「梶野○之助」と書いて話を進める。

 日本に初めて自転車が現れたのは明治の始め、欧米人が持ってきたもので、日本では「がたくり車」と呼ばれる前輪駆動(つまり前輪にペタルを直接附けたもの)で簡単な構造だった。そのため、明治維新で失業した「鉄砲鍛冶」「刀鍛冶」たちが、模造の国産車を創り、貸し自転車用に使われた。その後(1870年頃)、前輪の駆動輪を大きくして後輪を小さくした改良型「だるま車」が日本に入ってくる。ある研究者の論文には、1879年に「梶野○之助」が創立した工場で「だるま車」が模倣製作したと書かれているが、「わが国の自転車の製造が一応の軌道に乗るのはさらに遅く、1887(明治20)年代以降のことである」と結論づけている。

 研究者の年表には「1891年『木製ダルマ自転車』明治24年4月上旬、国友鉄砲鍛冶師作」という出来事が掲載されている。つまり自転車の製造は「梶野○之助」の工場設立(明治12年)のころでなく、このあたりから軌道に乗ったのだろう。この「 木製ダルマ自転車 」ってどんなものか? とにかくネットを調べてみた。見付けた!!新聞記事。(一番下に掲載)

 それは1988年9月15日付けの産経新聞「国友鉄砲かじ師が自転車作り」という記事である(下に写真)。この自転車は静岡県の旧家で発見されたもので、製造年とその製造場所が自転車のフレームに刻印されていた。「明治24卯年四月上旬国友作之」。国友とは現在の滋賀県長浜市国友町、戦国時代から鉄砲の生産地として栄えた処。この自転車の前輪は、1.05m、後輪は0.48m、サドルまでの高さは、1.15mと、それ程大きくないらしい。車輪は木製で、タイヤは鉄帯。前輪には泥除けも付けられており、ほぼ完全な形で発見されたのである。自転車を作った最初の日本人の職人は鉄砲鍛冶職人と推定されていたが、これはそれを裏付ける重要な発見として注目されたという。現在の有名な自転車メーカ「宮田自転車」の「宮田英助」も鉄砲鍛冶宿人だったらしい。

 「梶野○之助」も、のちに事業を拡大し、現在のような鉄製、タイヤ使用の自転車を製造し、一部は海外にも輸出され、1895年(明治28年)に「内国勧業博覧会受賞」している。鉄砲鍛冶宿人だけでなく、彼も日本の自転車草創期の先駆者として活躍したのである。


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