スポーツまいんど その67
◎昔のすぽると⑲ 楊弓場(ようきゅうば)
スポーツまいんど その67
◎昔のすぽると⑲ 楊弓場(ようきゅうば)
参考文献「近代体育スポーツ年表」には1883年(明治16年)の5.26に、「浅草寺境内、楊弓場34軒、玩物21軒」という記事がある。一体、これはどのようなものなのか。今回はこの「楊弓場(ようきゅうば)」と「玩物(がんぶつ)」を取り上げる。
「楊弓」とは「楊(やなぎ)」で作った2尺8寸(約85cm)の小弓のことらしい。「矢」は9寸(約27cm)、「的」の距離は7間半(約13.5m)で座ったまま射る遊びである。古く中国から伝来し、平安時代には小児や女房の遊びとして、室町時代には公家の遊戯、七夕の行事として行われたらしい。なんと古くからの「すぽれじゃ」なのである。
江戸時代になると民間に伝わり大流行する。「寛政(1789〜1801年)」の頃から寺社の境内や盛り場に「楊弓場」呼ばれる遊技場が現れてくる。「楊弓場」は京阪での呼び名、江戸では「矢場(やば)」と言ったらしい。10本の矢が6文などの料金で、金紙ばりの1寸的や銀紙ばりの2寸的、あるいは糸で吊った景品を射させるような賭的(かけまと)、つまり賭博的な「すぽれじゃ」となっていった。
問題は「賭的」だけでなく「矢取り女」の出現である。これは「矢場女(やばおんな)」「矢拾女」とも言われる、射た矢を集めるお仕事の女性である。しかしそれだけでなく、客に接して向き合い、右手に弓を持ち、左手で巧みに射るという「技」を持っていた。だから矢を拾うだけでなく、客と向かい合って手取り足取りの射的の世話する女性となっていったらしい。そこから綺麗な「矢場女」を置いて客を呼び、的場の裏の小部屋でひそかに・・・。賭博的「すぽれじゃ」から「淫をひさぐ」女性を求める遊びとなっていった。「やばい」という言葉は江戸時代にできたらしいが、「矢場い」、ちょっと危険な遊び場からきているという説もある。1886年(明治19年)以後から取り締まりが厳しくなり、次第にさびれていったという。
次は「玩物(がんぶつ)」。これは「物をもてあそぶこと」「もてあそぶもの」「玩具」という意味である。しかし浅草寺境内にある「玩物21軒」なる店が何か分からない。中国語の「玩物」は「慰み物」、楽しむ手段、もてあそばれる者(遊女)という意味があり、「矢場い」遊び場なのか? 「玩物草紙」という「澁澤龍彦」のエッセイの本があるが、まずは「裸体」から始まる。「玩物草子」という「柏木博」の本は「心地よいデザインに囲まれた暮らし(写真入り)」。「玩物」とは一体何か不明。
ネットで探しまくっても分からない。しょうがないので検索語に「浅草」を加えてみた。そしたら「久月のひな人形」が出て来た。ひな人形は「玩具」である。いろんな人形の写真のあとに「久月」の歴史が出て来た。「久月」は1835年(天保6年)初代が武士から人形師へが始まり。そして1877年(明治10年)に「東京玩物雛人形組合」を結成したという歴史が書かれていた。「玩物」という文字が使われている.その後、時代に応じて名称を変えながら現在の「東京玩具人形協同組合」へと発展したという。当時は「玩物」が人形組合の名前に使われるほど一般的であったのだ。だから浅草寺の境内の「玩物21軒」はおもちゃ屋さんであった可能性もある。でも、何となく不思議。お分かりの方、教えて下さい。