スポーツまいんど その73

◎昔のすぽると㉕  「球籠遊戯」 

 

 前回、「飛鳥山」での運動会、その一番すごかったこと(私にとって)は、女子のバスケットボールである。1901年(明治34年)に「飛鳥山」で日本初の女子バスケットボールの試合が行われたのだ。それには「渋沢栄一」が関連していた。今回はこの日本の「球籠遊戯」の話。

 日本女子大学、その大学創立を支援した「渋沢栄一」が「飛鳥山」の邸宅の庭を開放して第1回運動会を開催、家政学部と文学部の学生が赤と白に別れて対戦、これが日本初の女子の試合である。アメリカでバスケットボールが生まれたのは1891年、その10年後に日本で試合とはすごい。それは大学の創立者の「成瀬仁蔵」が米国留学でバスケットボールを知り、体育のカリキュラムに取り入れたからという。この「日本式バスケットボール」のゴールは固定されたものでなく、竹の棒の先に籠を付けたもの(この文章の下にその運動会の写真あり)。チームは20人、相手の籠でなく味方の籠にシュート、ドリブルよりもパスが主流だったらしい。「成瀬仁蔵」が日本の女性に合うようにルールも改良した可能性があると言われている。

 アメリカでは1893年に「センダ・ベレンソン」という人が女子用のルールを定めたと言われている。その女子用のルールでは、コートを3分割し、そこに3名ずつのプレイヤー、その区画から出ることは反則、相手方の得点となった。「オフェンス」「センター」「ディフェンス」各3名ずつの9名、シュートができるのは「オフェンス」の3名だけ。相手の持っているボールを奪ったり、たたいたりすること禁止。点数が入るごとにセンタージャンプ。ドリブルは3回に制限、ボールの保持は3秒まで、という現代のルールからは想像がつかないものだった。当時アメリカでは、バスケットボールが女性の気品や健康をそこなわせる乱暴なスポーツと指摘されており、そんな批判に対処してルールが作られたのだろう。因みに1938年(昭和13年)に3つのゾーンが2つに、そして1970年(昭和45年)に5人のフルコートゲームとなったらしい。(初めてアメリカに行ったとき、コートに2つのゾーンの女子バスケットボールの本が、たくさん図書館にあった。バスケットが生まれたアメリカで、どうして女子のルールが違うのか、何のことやら解らなかった。50年ほど前の話)。

 こんな女子用のルールが定められた1893年に「成瀬仁蔵」はアメリカに留学していたから、こんな女子用のルールに影響を受けたのだろう。彼は1894年に帰国し、「梅花女学校」の校長となり、「球籠遊戯」を指導しているという。そこではボールはゴムや綿でつくられた「手毬(てまり)」のようなものでドリブルができなかったようだ。コートは校庭でバレーボールのコートほどの大きさ(私も中学2年生まで校庭のコートだった)、ゲームの人数は固定化せず、ゴールは「紙屑籠様の竹籠を長さ一間余りの竹竿の頭上に結び付け」た移動式ゴールだったという。下の写真でも解るように、当時の女性の運動の服が和風であり、大変だったと思われる。

 「成瀬仁蔵」は1901年に「日本女子大学」を設立し、そこでバスケットボールを実施し、それを「日本式バスケットボール」と呼んだという。ボールはフットボール用のボールとなり、ドリブルも出来るようになった。コートの大きさは現代とほぼ同じ面積、コートの3分割はアメリカの女子ルールと同じ。3分割の区域に2チーム合わせて12〜14名、ゴールは移動式で、ゴールを傾けることによってシュートが入りやすくなり、ゲームの改良にながっていたとされる。

 それから約120年後の東京五輪、バスケットボール女子で日本チームが初の銀メダルを獲得する快挙を成し遂げた。その原点は明治の大実業家、渋沢栄一の北区飛鳥山の邸宅にあったのである。













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