スポーツまいんど その74
◎昔のすぽると㉖ 13歳で番付に名前がのる
スポーツまいんど その74
◎昔のすぽると㉖ 13歳で番付に名前がのる
参考文献「近代体育スポーツ年表」に1892年(明治25年)に「1.16 少年力士の梅ヶ谷、13歳で番付に名前がのる」という記事がある。これは「毎日新聞」の記事である。「番付」は大相撲の順位表であるが、現在では幕内42名、十両28名、ここまでの70名を「関取」といい、その下の「力士養成員」は「幕下」120名、「三段目」180名、その他、「序二段」「序の口」「番付外」(定員不定)があるらしい。13歳でこの「番付」にのった力士とはどんな人物だったのだろうか。今回はこの「少年力士」を取り上げる。
この力士は「梅ヶ谷藤太郎」というが2代目で、本名は「押田音次郎」、富山の薬売りの家の四男として1878年に生まれた。1891年に富山に巡業に行った大関の力士から勧誘され「雷部屋(いかづちべや)」へ入門。その部屋の師匠「雷」、元横綱の「梅ヶ谷藤太郎(初代)」が「四股名(しこな:力士の名前)」を決定、「梅ノ谷 音松」と名乗った。当時はまだ満12歳であったが英才教育を受けたらしい。この部屋には「鬼ヶ谷」という名コーチがいたらしい。
身長は168cmとそんなに大きくはないが、恵まれた体格が良かったのだろう。英才教育の成果もあり1892年(明治25年)に「序の口」として「番付」に登場したのだ。そして出世し「三段目」となり、単独土俵入りをやるようになり、「梅ノ谷」の錦絵が販売される。「幕下」となると横綱土俵入りの稽古までやったという。信じられないような英才教育だったらしい。
20歳となる1898年には新入幕を果たし、強豪を破る金星。翌1899年 1月「小結」となり、5月には「関脇」。そして1900年に「大関」となる。1902年「梅ヶ谷藤太郎(2代)」を襲名し、1903年横綱免許授与が決定、24歳6ヶ月での昇進は当時の最年少記録となる。横綱土俵入りは「雲龍型」を行い、現代では「雲龍型土俵入りの開祖」とされている。当時の横綱となる年齢は遅く、30台が殆どである。4代横綱の有名な「谷風」は39歳、13代の横綱「鬼面山」」は、なんと42歳、現代では「稀勢の里」が30歳だったが、あとはほとんど20代で横綱となっている。
この少年力士(梅ノ谷 音松)と同じような経歴の現代の関取は「北の湖」である。彼は1996年、中学1年の時、「三保ヶ関部屋」に入門した。年齢は「音松」と同じぐらいの頃である。1967年、13歳で初土俵、そして1971年、17歳で「十両」、1972年に「入幕」、1974年、「関脇」で初優勝、そして「横綱」となった年齢は 21歳2ヶ月。他にも若くして横綱となった力士は、「大鵬」21歳、「白鵬」「朝青龍」「貴乃花」22歳、明治時代とくらべると大きな変化が見られる。
「音松」は「梅ヶ谷藤太郎(2代)」を襲名し、横綱となり、期間は12年、23場所であり、当時としては長かった。今の相撲では「白鵬」84場所、「北の湖」63場所、「千代の富士」59場所、「大鵬」58場所、はるかに長い横綱が出てくるようになった。
残念なことは、「梅ヶ谷藤太郎(2代)」引退後「雷部屋」を継承するが、先代の「雷」梅ヶ谷藤太郎(初代)より早く、1927年に死去、49歳没である。身長は168cm、体重158kg「短躯肥満」と言われる体型が原因とも言われる。何となく淋しい話である。生涯の勝ち負け、201勝37敗、勝率0.845。