スポーツまいんど その94

◎昔のすぽると㊻ 白瀬中尉、南極へ

 
 

 参考文献「近代体育スポーツ年表」に1910年(明治43年)11.29、「白瀬中尉ら南極探検隊28人、開南丸で芝浦出帆」という記事があった。日本初の「南極体験」である。50年後の1960年「白瀬中尉南極探検50年記念」という記念切手が売り出された。当時、切手収集を趣味としていた私は、その切手をよく知っていたが、その探検がどのようなものであったか知らなかった。今日はこの「白瀬中尉の南極探検」を紹介する。

(参考:白瀬南極探検隊記念館HP)

 この白瀬さんは名前を「白瀬矗(のぶ)」というが、難しいので「白瀬中尉」と呼ばれる。1861年(文久元年)、秋田県のお寺に生まれた腕白少年だったらしい。11歳のころ、寺子屋の先生から「北極」の話しを聞いて探検家を志したという。僧職では探検ができないので軍人を目指した。1879年(明治12年)陸軍教導団騎兵科に入団。その時、幼名「知教(ちきょう)」から「矗(のぶ)」と改名したという。

 1893年、北極探検を目指して「千島探検」に加わるが、ずさんな探検計画のため多くの隊員が死亡し、白瀬さんは3年後に救助されるという悲惨な探検だったという。1909年、アメリカの探検家が北極点踏破成功を新聞で知り、ショックを受けるが、今度は南極探検へと180度転換する。1910年の1月に白瀬さんは「南極体験ニ要スル経費下付請願」(10万円)を帝国議会に提出し、満場一致で可決(3万円)するが補助金は支出されない。7月に「南極探検後援会」(会長:大隈重信)を設立し、国民は熱狂的に応援したという。

 11.29に出航、翌年の1911年2.8、ニュージーランドの「ウエリントン港」に入港、2.11南極に向けて出港したが氷に阻まれ、5.1シドニーに入港。南極の夏を待つ。11.19シドニー港を出発、翌1912年1.20、白瀬隊長の5名の突進隊、28頭の犬、2台の犬ゾリで南極点を目指すが、走行9日、走行距離282キロで力尽きる。その地点を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本領土と宣言した。

 探検隊は2月に帰国の途につき6.20「開南丸」は芝浦に到着。48000キロ、1年7ヶ月近くにわたる長旅であった。歓迎式には約50000人の熱狂的市民が集まったという。しかし借金40000円(現在の1億円ほど)、白瀬さんが背負うことになった。南極で撮影したフィルムを持って日本本土から樺太、朝鮮、満州、中国上海、台湾への旅、借金返済のための講演の旅であった。借金を返し終えたのは20年以上後、昭和10年、白瀬さんは74歳となっていた。