スポーツまいんど その98
◎昔のすぽると㊿ 富士山登山競走
スポーツまいんど その98
◎昔のすぽると㊿ 富士山登山競走
参考文献「近代体育スポーツ年表」に1913年(大正2年)7月25日「時事新報社、第1回富士登山競走を開催(太郎坊-頂上)、伊達甚太郎(2時間38分)優勝」という記事があった。この「富士登山競争」を調べてみた。
富士吉田市役所のHPに「富士登山競走 富士山の頂へ 日本一の山岳レース【公式】」というページがあった。2024.6月に「第77回富士登山競走公式試走会〜ランナーズ・ギャザリング」が行われた。コースは「諏訪ノ森自然公園〜三合目折り返し往復(約15km)」参加費4000円、定員20名(先着)というもの。
どうも違うと思い、他のページを見ると2024.7月に行われる。昨年度の記録を見ると「山頂コース」と「五合目コース」、男子の部、女子の部がある。「山頂コース」は約21km、参加料19000円、「五合目コース」は約15km、参加料14000円、「山頂コース」は以前の5五合目までの通過タイムが2時間20分以内の実績が求められている。定員は山頂コース2000人、五合目コース1776人(?)、76回大会の参加者、山頂;男子1494人、女子80人、五合目;男子1242人、女子147人であった。3000人近くの参加者がいるのだ。定員の数がおかしい?と思ったが2000+1776=3776、つまり富士山の高さだったのだ。
でも第1回の優勝者は早川さん、3時間10分24秒、伊達さんでない。スタート地点の「諏訪の森」は富士吉田市、1913年のスタート地点「太郎坊」は御殿場市、どうも違う。2024(年)-77(回)=1947=昭和22年、1913年(大正2年)の「第1回富士山競争」とは違う大会だったのだ。必死でネットサーフィンして資料を探し見つけた。「富士登山駅伝競走大会の変遷」という「富士学研究」の論文であった。この研究に基づいて「富士登山競争」の歴史をひもといてみる
論文では「富士山を登る形式の大会は山頂まで1人で駆け上がるマラソン形式が最初である」と書かれている(主催は時事新報)。それが年表で見つけた大会であろう。コースは10.5km、賞金は200円、1142人が応募したが、運営側が人数を絞りわずか14人でスタートだったらしい。それから4年後の1917年(大正6年)に第2回が開催された。応募者が多いので2チームに分けて出発したらしい。そして1922年(大正11年)の第3回(主催は東京マラソン連盟)頂上往復、太郎坊-頂上-御殿場のコースで34.8kmに広がり、学生が倒れるというアクシデントが起こる。その翌年、駅伝形式(主催は東京マラソン連盟)、距離47.8km、各チーム5名という大会、そして富士登山縦断大競争(主催は時事新報)が行われたらしい。その後いろいろな大会が行われ、戦争で13年間中断、戦後若干復活するが、昭和30年〜50年中断、昭和51年に「富士登山マラソン復活第1回大会」が行われている。現在は「秩父宮記念富士登山駅伝競走大会」として毎年8月の第1日曜日に、御殿場市陸上競技場から富士山山頂まで往復しているようだ。この御殿場の大会と先の富士吉田の大会の関係は不明である。