スポーツまいんど その2
スポーツまいんど その2
◎コーチ(上役)のお節介:パターナリズム
「小さな親切、大きなお世話」というような戯言(ざれごと)が流行ったことがある。ひとのためを思って行ったことが、かえって人のためにならないことを皮肉った言葉。このような、人のためを思って統制するような支配パターンをパターナリズム、訳して「家父長的温情主義」という。どうして日本の学者たちは、こんな難しい訳し方をするのだろう。パター(pater)とは親父(おやじ)のことで、パターナル(paternal)とは父らしいという意味だから、「親父(おやじ)主義」でいいのに、だいたい、家父長(かふちょう)って何だ、という世代がもうすぐ実権を握る世の中。ちなみに、このパターナリズム、社会学事典によれば、「父親の子どもに対する保護と統制関係のうちに認められる支配パターンを指す。(中略)保護のための一方的統制という専制的側面が優位した恩情主義と、支配一続制感情が曖昧となった、情緒的・人格的温情関係とがある」とのこと。
つまりコーチの場合でいえば、父親が子どもに対していろいろと注意をしたりするように、選手のためを思っていろいろな「おせっかい」をするような人間関係のことを意味している。で、「パターナリズムの問題」とは、選手のために「ああしろ」「こうしろ」、「そんなことはするな」などと注意、指導することによって、選手の自主性が損なわれてはいないか、という問題。難しい言葉で記すから難しそうな意味に思える。しかし、ここには結構、難しい問題がある。例えば、「自主的にやれ」と言われてやりだした場合、それは自主的と言えるのか、というような問題。あるいは、「自分で気が付くことが大切なんだ」と見守っていたら、大きな失敗をしてしまった、というような場合など。言葉の難しさよりはるかに難しい問題。
ブラウン(Brown,W.M.)というスポーツ哲学者は、十分に自発的でない人間の行動の場合には、パターナリズムは正当性を持つと主張し、若い選手に対して「安全にかかわるの場合」、「健康に関係するの場合」、「教育的な場含」において、その自由を制限できるとしている。つまり、選手は基本的に自由であり、コーチが制限やお節介ができるのは「選手が危険なことをやろうとしたり」、「健康を損なうことをしたり」、あるいは「教育的に必要である場合」だけで、あとは選手の自由だ、と言っているのである。また、そのお節介も、コーチの独自の判断だけではダメで、選手たちに情報を提示し、選択させるべきだと言っている。さらに、コーチが制限できるのは若い選手だけで、大人の選手に関しては全て自由だ、とも言っている。
こうなると「お客様は神様です」(古いフレーズ)で、コーチは選手たちの僕(しもべ)です、というような関係になってしまう。事実、私の昔の同僚のティイ先生(とある元オリンピック400mファイナル出場者)の話では、アメリカにコーチングの現状を視察に行った時、選手が飲み終わった紙コップをポイポイと捨てていくのを、後ろからコーチがホイホイと拾っていきゴミ箱に捨てていく光景を目撃したという。日本で昔はよく見られた名門運動部の「親分的な」指導も怖い話がたくさんあるが、アメリカのこの話も怖い。