「体験」と「健康」の捉え方

 

Ⅰ「体験」と「健康」

 「体験」と「健康」、その言葉の話から始めます。まず「体験」という言葉の話です。「経験」と「体験」を辞典で調べてみると、「経験」は 人間が外界(がいかい)との相互作用の過程を意識化し自分のものとすること、「体験」は 自分が身をもって経験すること。またその経験、となってます。よくわかりません。

 「○○体験」は「○○経験」とも呼ばれることがあります。マズローの「至高体験」、チクセントミハイの「フロー体験」、バタイユの「内的体験」、これらは、研究者によって「至高経験」「フロー経験」「内的経験」とよばれています。また、デユーイの「第一次経験」、西田幾多郎の「純粋経験」、「経験」という言葉を使っていますが、内容は「体験」ではないか、と言われます。例えば 西田幾多郎の「純粋経験」。彼は「純粋経験」を「未だ主もなく客(きゃく)もない」と言います。これは「主体」と「客体」がわかれていない、「主観」と「客観」が一緒の状態であり、それは「体験」ではないかと思われるのです。西田の「善の研究」の解説を行った小坂さんは 「西田の純粋経験の概念」は主体的な体験や境位(きょうい)という性格が強いとしています。 

 「体験」という英語はありません。「体験」があるのはドイツ語です。「英語」では「体験」を意味させるために「lived experience」という言葉を使っています。その言葉は「生きられた経験」、と日本語訳されます。そこに問題があります。ある「看護学」の研究者はこんなことを言っています。看護学は<身体性>を備(そな)えた人間存在を対象とするから<経験>を扱うのは困難である。しかし現状では ドイツ語の「体験」を英語に訳すと「lived experience」となり「生きられた経験」と訳される。「生きられた経験」 は印象づけるには効果的な和訳だが、注意が必要と批判をしています。またある現象学者は,「経験」の客観的分析は自然科学の「主観・客観の一致」の枠組みにとらわれてしまう、と批判をしています。このように「体験」という言葉には不都合な点があります。

 次に「健康」という言葉の話をします。「健康増進」という言葉があります。「増進」は「まし・すすめる こと」です。 では「何を増して進める」のでしょうか? ・・・・・・・なかなか答えが出て来ません。 「Don’t  sleep through life」と言われてしまいます。この英語は、「ボーッと生きてんじゃねーよ」です。 チコちゃんに しかられることになります。

 「健康」という言葉の語源は「易経(えききょう)」という書物に出てくる「健體康心(けんたい こうしん)」という言葉だという説があります。「からだ」が すこやか 「こころ」が やすらか という状態のようです。WHOの定義を見てみましょう。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」。「健康」は「病気でないこと」ではないようです。このwell-being 、重要なようです、後ほど。

Ⅱ「体験」と「健康」の意味

 この「体験」と「健康」、その意味を整理してみます。まず「体験」とは何か、考えてみます。ドイツの教育哲学者ボルノーは「経験」「体験」は面白い特徴があると言っています。「経験」は「思考」で「体験」は「感情」、「経験」は客観的で「体験」は主観的、「経験」は教えを引き出し「体験」はその中心に立ち豊かになる。何となく日本の「経験」と「体験」の考えに近い感じがします。

️ ドイツの哲学者ディルタイの「体験」はボルノーとは異なります。「体験」は「表現」によって具象化、つまり「形」として客観化され、「理解」できるという構造です。ディルタイは、詩人「ゲーテ」を取り上げ、その「創作」は個人的「体験」の「表現」といいます。このような言葉の表現、あるいは芸術的表現である「体験の表現」は「理解」できるとするのです。

️ これらのドイツの「体験」の考えを参考に、「体験」を考えてみましょう。まず「体験」は突然に始まります。「野辺の花を見て『あっ』」、「難しいシュートが入り『おお』、「陶酔(とうすい)」の瞬間であり、「主体」と「客体」がわかれていない状態、それが始まりです。「体験」の始まりは意識に先立つもので 「非-知」、つまり「おお、ああ」としか言えない状態なのです。ボルノーの言う感情的、主観的なもの、言葉にならない意味不明の状態なのです。しかし、言葉で表せませんが、身体の感覚で感知できるものなのです。

️ では「体験」の「表現」とは どういうことでしょうか。そこで、「自転車に乗る」という「身体運動」の「体験」を取り上げてみます。初めて「乗ったとき」は「おお,ああ状態」で客観的に意識できず、「からだ」で感じる体験です。そして、その身体の「感じ」で「自転車に乗る」という身体運動の「形」を作っていきます(この身体の無意識の創作の働きについては後ほど説明します)。身体の「体験」によって自転車に乗るという「身体の動き」が作られます、それが「表現」なのです。この「表現」によって「無意識」「非-知」の状態が「意識」「客観化」の状態へと変わってゆくのです。

️ そして「理解」ができるようになっていきます。「体験」の始まりは「意識に先立ち」、非知であり、それは身体的に感知するものでした。その「感知」で、「身体の動き」を「具象化」、つまり「形」としての「表現」ができます。それによって「身体の動き」は「意識化」し「客観化」します。客観的なものは「理解」できます。このような「理解」は自覚的に意識し、客観的知識を形成するようになります。となると「体験」というよりもボルノーの言う「経験」に移ってしまったような感じなのです。

️ そこで私は「体験」と「経験」という別のものがあるのではなく、一つの現象の推移とみたのです。この「体験」の始まりの無意識の「おお,ああ状態」、これを「体験」の原点と考えます。そして「表現」によって客観化され、理解されるもの「経験」へと変わっていきます。先の看護学の先生が言ったように「経験」「lived experience」「経験」となると、「<身体性>を備(そな)えた人間存在」を考えることが難しくなります。「経験」の客観的分析は自然科学の「主観・客観の一致」の枠組みにとらわれてしまうのです。ですから私は、意識的、客観的「経験」ではなく、「無意識」「主観的」な「体験」の始まり(原点)を「体験」と考えてみたいと思います。

️ 「健康」とは何か。今回の論議では、WHOの定義を「健康」と考えます。つまり、well-being、身体的、精神的、社会的に満足な存在、人生を「健康」と考えます

Ⅲ 身体の「体験」が生み出すもの

️ 身体の「体験」が生み出すものを考えます。「身体図式」というものがあります。これからの話は、この3つの論文として体育学研究に発表しています。「スポーツ運動」はある関係を生む、人間にとって重要な体験であるという研究です。                       2009(体育学研究54-1)意味生成としての「スポーツ運動」体験の意義          2012(体育学研究58-1)意味生成としての「スポーツ運動」体験の時間性        2015(体育学研究60-2)意味生成としての「スポーツ運動」体験の構造

️ 突然「イチロー」と「錦織(にしこり)」の話しです。彼等は時速150km. 200kmのボールを打ったり,返球したりしているのです。しかし科学的には彼等は打てないのです。何故かというと「リベット値」というものがあるから 打てないのです。これはリベットという脳学者が実験結果から発見したものです。15年ほど前の体育学会で哲学者の「山口先生」が講演していました。意識が生じるのには0.5秒かかるという事です。

 山口一郎(哲学者)2007年体育学会体育哲学シンポ「身体論の再発見」

️ 0.5秒後、テニスのサーブの意識が生じた時にはボールはすでに通過しています。野球では0.5秒後、ボールはキャッチャーミットに収まっている、と山口先生は言っていました。何故、打てるのか? 「からだ」が先に動いてその後「意識」している、から。一般的にボールを意識して身体運動を生起させると考えていますが、「意識に先立つ無意識的なはたらき」があるということです。それを支えているのが「身体図式」です。「意識」ではなく「無意識」の領域の「感情と情動の作用」なのです。この考えは「湯浅」先生の「身心の二重構造」論に基づいています。

 「身心関係の二重構造」:湯浅泰雄(1977)身体―東洋的身体論の試み―.創文社

️ 「からだ」が とっさに動く 無意識に動くことがあります。「トッププレイヤー」だけでなく私たちにも 「身体図式」による無意識の働きがあります。例えば「歩く」、「自転車に乗る」という身体運動は無意識に行われているのです。「歩く」という身体のバランスを崩して始まる動きは 意識して客観的に行うことは難しいです。例えば「ムカデ」も 百本の足を意識して動かしてはいないでしょう。「からだ」の「体験」の「感じ」で「歩く」という「形」を「創作」する、それを無意識の「身体図式」の働きで行っていると思われるのです。

️ この「身体図式」は同調して新しい世界を創ります。この「生成としての身体教育」に関しては、3つの論文を発表しています。「身体図式」の同調は新たな世界に入り込む。その有用性にとらわれない体験は生命性を深める生き方を生成するという研究です。

2018(体育学研究63-1)意味生成としての「身体教育」の可能性              2019(体育学研究64-2)「生成として身体教育」探究の方向性             2020(体育学研究65-2)「生成として身体教育」の様相

️ 「身体図式」の同調は「市川浩」さんの「身(み)」の概念に関連します。彼は著書「精神としての身体」で、「身(み)」という言葉は「身体」「精神」を意味するとしています。「身内」「身覚え」「身に付く」などです。彼は「身体図式」が他者と「同調的感応」あるいは「共鳴」すると言っているのです。そして、「身体図式」は「他者の身体」「もの」「自己の身体」と同調すると私は考えたのです。

️ 「身体図式」は「他者の身体」へと同調します。ある理学療法士はパーキンソン病の治療に「身体の同調」「実存のリズム」が重要と言っています。あるいはスポーツ運動学の金子先生は「動感メロディー」と言い、リズムの同調を主張しています。これらは「身体図式」の「他者の身体」との同調と考えることができます。

️ 「身体図式」は「もの」へと同調します。先ほどの錦織やイチローのボールに対する対応は「もの」の動きへの同調です。盲目のピアニスト辻井さんの動きは、「からだ」でピアノを弾いているように見えます。「身体図式」のピアノへの同調と考えることができるのではないでしょうか。

 「身体図式」は「自己の身体」へと同調します。これは私のオリジナルな考えです。それは樋口さんと田中さんの主張したふたつの「身体」に基づいています。彼等は次のようなふたつの身体を論じています。樋口さんは「主観-身体」と「客観-身体」のふたつがあり、その同調は「身体が身体を感じる」体験であり、「美的体験」をもたらすと述べています。田中さんは「心理的-主体的身体」と「生理的-客観的身体」のふたつがあり、「身体図式」が「生理的-客観的身体」と同調することで実際の行動が行えると述べています。私は「身体図式」が、自分の「客観的」「生理的」な身体と「同調」すると考えたのです。

️ 田中さんと湯浅先生はこんな事を言っています。「体験世界そのものとして身体図式を体験している」。「身体」は「身体図式」を媒介として 生理的「身体」を超えて「世界」へと広がっているのです。 

田中彰吾・湯浅泰雄(2001)身体図式からイマジナル・ボディへ.人体科学,10(1)

️ 「身体図式の同調」によって調整された「身体運動」、その「動き」は「身体の体験」として感知します。私はそれを「<身体>体験」と名付けています。この「<身体>」は生理的身体ではなく、「生きられた身体」を意味しています。

Ⅳ「体験」と「健康」の結びつき

️ 「体験」と「健康」の関係を考えてみます。「体験」と「健康」という言葉の意味を確認します。「体験」は突然始まり、意識に先立つ、言葉にならない現象ですが、「からだ」で感知できます。客観的に意識で理解できる「経験」とは異なります。この「からだ」での感知を「<身体>体験」と呼びます。「健康」はwell-being 、身体的、精神的、社会的に満足な存在、人生を意味します。「体験」と「健康」、このふたつはどの様に結びつくのでしょうか。

️ 「溶解体験」の話をします。矢野は1999年の体育学会で「非知の体験としての身体運動」を論じました。体育において身体運動が何かの手段となっていることを批判したのです。身体運動は「溶解体験」、「私と世界の境界線が消える」という瞬間を生み出すというのです。そしてそれは「陶酔(とうすい)」「脱自的恍惚(こうこつ)」の瞬間であると矢野は論じるのです。

1999年体育学会体育哲学シンポジウム:矢野智司「非知の体験としての身体運動」

 「溶解体験」という言葉は社会学者の「作田啓一」が生み出したものです。作田は「ロマン・ローラン」が述べた「大洋感情」を基に「溶解体験」を「自己の中に無限を感じる体験」「人間の実存の状態」としたのです。

 作田啓一(1993)「生成の社会学をめざして」

これは矢野が述べるように「生命性を深める秩序に開かれる」ことなのです。私の研究の「生成としての身体教育」はまさにこの「開かれた身体」の「生成」なのです。

️ ここで「<身体>体験」と「溶解」という状態を考えてみましょう。矢野が述べたように身体運動には「陶酔(とうすい)」「恍惚(こうこつ)」の瞬間があります。それは「非知の体験」で「おお、ああ状態」です。それを「<身体>体験」が生成するのです。「非知」を論じた哲学者「バタイユ」は、その非知の「体験」自体を語ることはできないが、「非知の体験」によって現れる「笑い/涙/恍惚(こうこつ)」の現象は語れると述べています。「<身体>体験」は語れませんが、その「恍惚(こうこつ)」という現象は語れると私は考えました。

️ 「恍惚(こうこつ)」の現象に関しては多くの研究者が語っています。「恍惚」は身体運動の根本動機、その感覚は溶解に似ている(鵜野祐介:教育人類学) 。「恍惚」において「主体」と「客体」が溶ける(バタイユ「無神学大全 内的体験」)。 「恍惚」と「きまま気分」への行ったり来たりが「遊び」である(ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」)。 「恍惚」の状態は「溶解体験」を基に「自己超越」を生む、それが「遊び」である(桐田克利「遊びの躍動」)。 このように「<身体>体験」は「身体運動」や「遊び」の「恍惚」という状態、様々な「人間としてのあり方」、つまり「Well-being 」を「生成」していると考えられるのです。

 ここでは「感性的快」の話をします。「市川浩」さんは「身体」でも「精神」でもある状態を「身(み)」といいます。「わが身」は身体的、精神的な状態であり、そして社会的な「身振り」を行います。よって「健康」は「身(み)」の「Well-being 」と言えるでしょう。 Well は「よく」、Beingは「存在」「人生」とします。ある社会学者が「よさ」を感じる3つの快感について述べています。そして、この最後の「感性的快」が目的意識から離れた自由な快感であるとしています。となると「身」のWell-being は「感性的によい」存在、人生と考えることができます。

 宮原浩二郎・藤阪新吾(2012)社会美学への招待 —感性による社会探究—

️ 哲学者「桑子」さんは「感性」を「世界と自己との相関を感じる能力」としています。人間は、世界に身をもってかかわり、その「<身体>体験」は「感性」の能力を活かしているのです。つまり「身」のWell-being は「<身体>体験」による「感性的快」を感じる状態と考えることができます。

 桑子敏雄(2001)「感性の哲学」

結論

 「体験」の始まりは 無意識であり 身体の感覚で感知する「体験」です。 その「<身体>体験」は「溶解という現象」を起こし、「陶酔(とうすい)」「恍惚(こうこつ)」の瞬間を「生成」するのです。

️「健康」は「身」のWell-being 、「感性的によい」存在と考えました。よって「健康」は世界へ身をもってかかわり、それによって「感性的快」を感じる状態としました。 

 「<身体>体験」は「溶解という現象」を生成します。それは「恍惚(こうこつ)」であり、「感性的快」なのです。ということは「<身体>体験」は「感性的快」を生成するのです。つまり「体験」は「身」のWell-being、「健康」をもたらすと言えるのではないでしょうか。

️ 最後に、今回のシンポジウムのテーマについて話します。「オンライン化」とは「業務の効率化」のための「時間」や「空間」を変化させることです。この「オンライン化」によって、高齢者の私の研究は、可能となりました。ネットで「体験」という用語で検索し、資料の収集、それが自宅でできる、時間と空間の効率化でした。

 「オンライン化」で得られるものとは、効率化、有用性の秩序、意識的、客観的な思考です。しかし、主観的、感情的な感じ、生命性、無意識、主観的な感性を重視しません。 つまり「体験」の始まりのときの「感じ」、「おお-ああ現象」は無視されるのです。

「オンライン化」を進めることは、世界に溶け込むような「<身体>体験」によって生み出される「身」のWell-being という意味での「健康」、そんな状態をもたらす機会が失われるのではないか、と考えます。

終了

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