Unit 731 and the Human Skulls Discovered in 1989: Physicians Carrying out Organized Crimes

 

Brief history of 731 Unit

Togo Unit

731部隊は19368月に、中国のハルビン(Pingfan near Harbin)で正式に発足したが[1]、それ以前の1932年秋からハルビンの約100キロメートル東南にある小さな村の醤油工場を拠点に準備活動が行われていた[2]。この年、後に731部隊長となる石井四郎(Ishii Shiro)を長とする軍医学校防疫研究室(The Army Medical College, The Epidemic Prevention Research Laboratory)が東京で発足していた[3]。それに合わせて彼は中国で32年から1年間かけて部隊設営を行い、33年秋から人体実験を開始した[4]。これは関東軍内の非公式活動で、この活動に加わっていた研究者は軍医だけで、かつ彼らは全員が偽名を使用していた。このグループは当時の石井が使用していた偽名、東郷(Togo)にちなみ「東郷部隊」という暗号名で呼ばれていた。これは活動の秘密保持を重視した結果だった。

防疫研究室と東郷部隊(およびその後身の731部隊とその姉妹部隊)との関係は司令塔と手足、前者の方針に添って後者が人体実験を含む試験を実施するというものだった。さらに防疫研究室は民間の研究機関・研究者と731部隊などの軍の機関とを結び付ける要の役割を果たしていた。

1933年からの3年間の活動に秘密保持を必要としたのには二つの要素があった。ひとつは部隊設立の目的だった人体実験実施の事実を隠したかったことがあった。もうひとつは、その実施は人体実験についてのフィージビリティ・スタディ(feasibility study)だったが、それが失敗と判明した時に天皇に責任が及ぶことがないようにするためだった。天皇の軍隊、皇軍における失敗は天皇の無謬性を侵すことになり、当時の日本軍の軍人には許されないことだった。

 

人体実験についてのフィージビリティ・スタディの目的は以下の2点だっただろう。

 

@     人体実験の継続的実行が可能か否か、被験者の継続的確保の確認

A     石井たちのプロジェクト、生物兵器開発にとって人体実験が有意味かどうかの見極め

 

1936年までの活動においても、炭疽菌などの病原体をヒトに接種する実験も行われているが、それ以上に目につき、組織的だったのは青酸化合物による人体実験だ。各回、10人前後が対象だった[5]

1934年から1936年までの2年間で6回、青酸化合物を飲ませ、死亡までの経緯を観察している。青酸化合物についての人体実験の特徴は以下の通りだ。

 

@ 写真撮影を行っている

A 死体解剖を行っている

B 致死量の確認

C ビール、コーヒー、あるいはワインに混入して飲ませている

D 対象はロシアのスパイ(ロスケと蔑称)および特務機関が使用していて不要となった密偵

 

@〜Bから、単に殺害目的ではなく、医学的目的をもった実験だったことは分かる。Cは飲み難い青酸化合物を抵抗なく、また時に毒物を飲まされるという懸念をいだかせないで飲ませる工夫だっただろう。Dは、731部隊成立後の被験者確保の方法が「東郷部隊」時代に確立していることを示している。

青酸実験の医学的目的はB以外に、青酸による殺害が人体にどんな影響を与えるかの確認だっただろう。それは19487月に捜査会議に報告された次のような証言から推測できる[6]。証言者は1938年に京大から731部隊に加わった病理学者の岡本構造(Okamoto Kozo)だ。

 

岡本の言に依れば研究の場合は一度に捕虜15名くらいを試験台に供し病死の前に発病後3日目4日目と云う具合に其の病状を研究する為に、殺して死体を解剖に附したと云う。死体は何れも窒息死であった為恐らく青酸加里を以って毒殺したものと思うが毒殺の下手人は誰であるか判らぬと云う。それは死体だけを研究の為廻されていたからである。

 

しかし、もっぱら青酸化合物が使われていたわけでもなく、クロロホルムを使用していた研究者もいた。南京の1644部隊で人体実験を行っていた小野寺義雄(Onodera Yoshio)724日、次のように証言している[7]

 

100150名ぐらいの研究をした。其の研究したマルタ(log)を佐藤俊二が解剖をしたもので、私は結核について其の経過状態を研究し、最後にはクロロルホルムを注射してねむらせた。注射中に参って終ふ。私の在任中は青酸加里を使用しなかった(下線は原文のもの)

 

また、731部隊で流行性出血熱(Epidemic hemorrhagic fever, today’s name is Hemorrhagic fever with renal syndrome)の人体実験を行った笠原四郎(Kasahara Shiro)は、1947年x月x日に、米軍の調査に「クロロホルムで眠らせた」と答えている[8]

 

一方は青酸カリで殺害し解剖し、他方はクロロホルムを使用した。これは人体実験の目的によって使い分けていたのかとも思える。部隊発足当初、精力的に青酸実験を行ったのは、本格的研究を前に、医学データを消さない被験者の殺害方法を探っていたと推測できる。用意周到さは研究には必要だが、このような逆さまのそれはどう考えればよいのだろうか。まさに「専門バカ」の視野の狭さを感じるとともに、狭いために人間社会の常識を離れて物事を深く深く突き詰めることができる怖さの見本となっている。

 

Official Start of 731 Unit

19368月、日本軍の公式の部隊として731部隊が発足し、東郷部隊は消滅した。活動場所もハルビンの南約30キロメートルの地に建設された部隊施設に移った。この施設は医学研究室・実験室を持つだけではなく、人体実験の被験者を収容する施設、監獄(78)を備えていた。各研究室・実験室は監獄を取り囲むように作られており、研究者たちは毎日被験者を見ながら研究をしていた[9]

731部隊となってからも「用意周到さ」は変わらなかった。731部隊における被験者確保は憲兵隊および特務機関に委ねられていた。部隊の要請に基づいてそれらから部隊に送られてきた人々を待っていたのは、健康診断だった[10]

被験者の管理を受け持っていたのは、1938年に京都大学から部隊に加わった生理学者、吉村寿人(Yoshimura Hisato)を長とするグループだった。彼は部隊内で「科学の鬼」と呼ばれていた。このグループは健康診断を行う2つのサブグループと、捕虜の監視や各実験室への送り出しおよび終了後の受け容れなどを受け持つ2つのサブグループからなっていた。健康診断を受け持っていた2つのサブグループの長は何れも医者だった。そのうちの一人、宮川正は19444月から731部隊に加わり、被験者のレントゲン撮影を受け持っていた。戦後彼は東大医学部の教授となり、88歳で亡くなっている。その死亡記事は「放射線の医学利用における草分け的存在。脳しゅよう治療などに使われる医療用サイクロトロン(円形加速器)などの開発に貢献した」としている[11]。健康診断のもう一つのサブグループはレントゲン撮影以外の血液や免疫など検査、それに被験者の健康管理を受け持っていた。731部隊では、送られてきた全員について実験をしていたのではなく、健康な人間に対してのみ行い、受け容れてからも彼らの健康管理には十分な注意を払っていた。

何故吉村がこのグループの長となったのか。彼の専門は「生理学」だった。生理学と対をなすのが「病理学」だ。病理学は病気の原因を究明する学問だ。731部隊には病理学者が4人いた。彼らは、病原体を感染させる実験で死亡した捕虜の死因、それがその病原体によるものかどうかを解明することなどが仕事だった。他方生理学というのは、生き物が生きているその理屈を考え、立証する学問といえよう。吉村は「正常な生命現象とはどういうことなのかをいろいろな面から、科学的に説き明かしていく学問が生理学である」(太字は原文)、と書いている[12]。人の健康とは何かを明らかにする学問が生理学である。それゆえに吉村は78棟を管理する部門の責任者となったのだろう。

ここには最後には殺害することが決まっている被験者とするために、組織的な健康診断を行う科学的厳格さがある。しかしこの厳格さ、被害者の人間としての尊厳を全く考えない、全面的に無視したことで成り立っている「科学性=厳密性」、これこそ逆立ちした「科学」そのものだろう。731部隊の場合は非常に分かり易い形でそれが出ているから批判することは難しいことではないが、最近はより巧妙と言うか、分かりにくい形で人間性を無視した逆立ちした科学が行われているようだ。例えば不妊治療に名を借りた、ヒトのクローン作りなどがそうだ。

 

731部隊の医学者ではない隊員たちは吉村を「科学の鬼」と呼んでいた。人体実験の経過を撮影する仕事をしていた人物は以下のように証言している[13]

 

1944年春頃、7棟の2階に捕虜がいて、70名ぐらい(看守の鍵を取り)が革命歌を歌って騒ぎ出した。これを全部殺した(ガスで殺した)。神戸にいる吉村、これは科学の鬼である(冷血動物)

 

このとき、ガスを使用したのは、実験中の捕虜が多く、データをとるため、ガスを使用したのだという。吉村このような科学的厳密さの追究ゆえに「鬼」と呼ばれただけではなく、後で述べる生後3日の赤ん坊の指をマイナス零度以下の冷水(水、氷それに塩)に漬ける実験なども影響しているだろう。

 

日本の敗戦時、1945年夏、731部隊の監獄には数百人の捕虜がいた。彼らは全員が殺害された。その模様について次の証言がある[14]

 

終戦の811日と12日両日、丸太(捕虜の事)を3百位処置した。其の際の状況は、捕虜に自決を強要して縄を一本宛与えた。1/4は首吊って自殺した、他の3/4の者は自決を承知せぬため、青酸加里を呑ましたり、注射で殺したりして、全部片付けた。青酸加里の使用は食器に水と一緒に溶かして呑ませた。注射はクロロホルムだっただろう。

 

殺害された人々はその場で焼かれ、現場に埋められた。

 

 

The Human Skulls Discovered in 1989

19897月、厚生省の予防衛生研究所の建設現場で人の骨が大量に発見された。この場所には1929年から1945年まで陸軍軍医学校が存在していた。当初の警察の発表で35体分、その後1992年に公表された専門家、佐倉朔(Sakura Hajime)の鑑定で、100体分以上と判明した[15]。その鑑定によると、発見された骨はアジア系の人間のものだが、単一の人種ではない、複数の人種の骨が混在している。さらに骨が地中にあったのは100年以上ではないし、15年未満でもないことも明らかにされた。

このデータが示しているのは、89年の人骨はその場所に軍医学校があった時代に埋められた、アジア系の外国人の骨だ、ということだ。埋められたのは埋葬されたわけではなく、捨てられたのだった。あるいは捨てたというより、証拠隠滅のために埋められた可能性が高い。これは敗戦時に731部隊で殺害された被験者と同じ処理方法だ。

これら人骨を最初に警察が鑑定したのは、これらがいわば死体であり、その死因や事件性について判断する上で当然のことだった。発見から1週間ほどで発表になった警察の鑑定結果は、骨に事件性は見出せなかったし、たとえ犯罪の被害者のものとしても15年以上地中にあったことは確実で時効が成立している、というものだった。その結果、通常の行き倒れとして処理すべきという結論を導き出した。

実際は違っていた。佐倉の鑑定は次の点を明らかにした[16]

 

@    頭蓋骨の多くには頭蓋骨をメスや鋸で切除して行われる脳外科手術の練習・実験台となったと思われる跡がある。人骨が地中にあったのは50年以上だが、当時(1940年代)の日本では未だ頭蓋骨の一部を切除する脳外科手術は行われていなかった。

A    いくつかの頭蓋骨には刀による切創があり、またピストルで射抜かれたものもある。

 

佐倉の鑑定の@の指摘は、これら頭蓋骨が脳外科手術の実験台、あるいは練習台、となったことを示している。Aの指摘は、これらが犯罪の被害者のものであることを示唆している。

こうした実験あるいは犯罪行為は731部隊と直接結びつくものではない。むしろこれらの骨が示しているのは、731部隊での蛮行が決して日本の軍医たちの間で突出していたわけではないということだ。これらの骨は日本軍の軍医たちが戦場で、あるいは軍医学校に関係する医学者が軍医学校で、脳外科手術の練習・実験をしたものであり、それを証拠隠滅の意味もありそこに埋めたのだと推測できる。

この推測の根拠は、元軍医の湯浅謙(Yuasa Ken)の証言に基づいている[17]

湯浅の証言によれば、本来内科医としての訓練を受けていた医者を、戦場で大量に必要な外科医に手早く仕立てるために、数ヶ月に一度現地の軍医を集め「手術演習」と称した残虐行為が、中国の戦場で行われていた。住民を捕らえ、その大腿部に弾丸を撃ち込み、どの程度の時間で弾丸の摘出手術が完了するかとか、凍傷にして、その部分の切断手術などの練習を行っていた。

この手術演習は一部の地域に限られていたわけではなく広く行われていた。多くの場合憲兵が犠牲者となる現地の人々を逮捕し、軍医部に提供していた。こうした状況は「手術演習」が個人的なきっかけによってではなく、軍医部や憲兵隊など陸軍全体として組織的に行われたことを示している。「手術演習」で得られた頭蓋骨が集められ、それが軍医の元締めである軍医学校に送られていた、と考えても不思議ではない。このように考えた場合、集められた頭蓋骨はまさに戦争犯罪の犠牲者のものということになる。

 

Open Secret

筆者は1981年に発表した自著で、石井に代わるもう一人の部隊長(19428月‐455)、北野政次(Kitano Masaji)らが1943年および44年に発表した、流行性出血熱についての研究論文(複数)を分析し、その研究成果が人体実験によることを明らかにした。また吉村が凍傷の実験で人体実験をしていたこともその論文の分析によって立証した[18]。彼らの論文に基づいて、彼らの人体実験を立証するのは難しいことではなかった。ほんのわずかな医学的知識があれば可能だった。従って、それら論文が発表された時、医学者であれば誰でもがその研究結果は人体実験に基づくものであることを理解したはずである。

その北野は1969年に防衛庁の出版物に流行性出血熱について寄稿し、「スモルディンテフはマウス、モルモット、ウサギ、猿のごとき標準実験動物に本患者の血液又は尿で感染させ得ず、かれまた病原研究に人体実験を行った」(強調は引用者による)と書いている[19]。スモルディンテフというのは、一九四〇年代に流行性出血熱を研究し、ウイルスを人体実験で確保したソ連の研究者だった。この回想は北野らまた人体実験を行ったことの告白である。それを防衛庁の出版物に発表している。人体実験の事実を隠そうとしていない。

その前年、1968年には731部隊の医者だった池田苗夫は「流行性出血熱のシラミ、ノミによる感染試験」を発表している[20]。この論文が述べる感染実験は19421月に中ソ国境の黒河の陸軍病院で行った、現地のヒトに対してノミあるいはシラミによって流行性出血熱が感染するか否かを確認する人体実験である。この病気の死亡率は5%である。死の危険のある病原体接種の人体実験であることが明白な論文が、受け付けられ、レフェリーの審査を経て、学会誌に掲載された。論文を投稿した池田にとって、またそれを受けた伝染病学会にとっても、731部隊での人体実験は自明のことであり、その倫理的問題よりも、人体実験による得難い、と彼らが考えたデータの蓄積を重視した。しかしこのようなデータは追試ができず、意味がないものだ。

 

731部隊員から「科学の鬼」と言われた吉村は「・・・・・・私の戦時中の研究は、戦後、英文生理学誌に発表したが、欧米の学者の間に大きい反響を呼び、今日も尚この研究を発展させた実験は日本のみならず、世界の大学や研究所で行われていて成果をあげている」と書いている[21]。戦時中の研究とは中国の731部隊で行われた凍傷のメカニズムの解明を含む、寒冷生理学の研究である。吉村は戦時中の研究を生かし、戦後、日本生気象学会を組織した。彼は中国で研究したことで、生理学でも、特に環境にどのように対応するかという研究を始めることとなった。

吉村が英文の「日本生理学会誌」に発表した論文は、人間が摂氏零度の氷水にどう反応したかについて報告したものである[22]。彼らが行った実験は摂氏零度の氷水に左手の中指を30分漬けさせ、皮膚温の変化を観察するものだった。実験の対象となったのは中国人の15歳から74歳までの男女約100人である。ここで「約」というのは彼ら自身の言葉である。これは実験の厳密さを疑わせる表現である。

さて吉村の英語の論文は、後に新聞その他で「生後3日の赤ん坊を摂氏零度の氷水に浸ける実験をした」と批判された。そのなかで彼らは次のように書いている。「6歳以下の子供については詳細な研究ができなかったが、赤ん坊についていくつかの観察を行った。生後3日でも反応が観察され、反応係数はほぼ1ヵ月後に一定となるまで日々上昇が見られた」(‘Though detailed studies could not be attained on children below 6 years of age, some observations were carried out on a baby. … the reaction was detected even on the 3rd day after birth, and it increased rapidly with the lapse of days until at last it was nearly fixed after a month or so.’)。これには赤ん坊の中指を摂氏零度の氷水に30分間漬けた時の反応について、それぞれ生後3日目、1ヵ月後それに6ヵ月後のデータが記されている。

赤ん坊の実験について、『毎日新聞』大阪社会部の記者が吉村に電話で取材したとき彼は次のように述べたという。「みんな誤解しているんだ。乳児の人体実験をやったといって批判するけどね、あれは私が部隊に連れていった薬大出身の部下のお子さんなんだよ。冷たい水に触れると血管がどう反応するか、抵抗はいつごろから、どうやってできるかなんかを調べる実験だが、私が彼に勧め、お子さんを使っただけだ。捕虜の子なんかじゃない」[23]。そして彼は、彼らがいかに研究に熱心であったか、そしてその熱心さがわが子を実験台にしたのだと述べている。吉村が実験に使ったのは捕虜の子供ではなく、弟子の子供のだと述べていることは、この実験が通常のものではないことを吉村自身認識していたことを示している。

熱心さのあまり自分の、生後3日の赤ん坊に前記のような実験をする親というのは人として許されるのだろうか。そうした人が科学者としていろいろな実験をする、研究をするというのはどういうことだろうか。筆者は吉村の新聞記者に対する釈明を信じているわけではない。むしろここで問題としたいのは、科学研究では「熱心さ」があればすべてが許されるという誤解があるという点である。吉村はその点を誤解していたから、記者に対して前記のような釈明をしたのであろう。

吉村の話に出てくる弟子はすでに死亡していて、吉村の言い分を確かめることはできない。

捕虜の子ではないという吉村の主張を認めると、別の疑問が生まれる。それはなぜ吉村が自分の子供を使わなかったかということである。吉村の『喜寿回顧』(Seventy-seven Years in Retrospect)を読むと彼には子供が4人いる。その内上の2人は731部隊に行くときには既に生まれていたが、下の2人は部隊にいる間に生まれている。先の吉村の理屈からすると、彼が自分の子供を実験台にしなかったのは、彼が研究に不熱心だったためということになる。

助手の子供を実験台にしたのではなく、部隊に捕らわれていた人が産んだ子供を実験に使ったというのが実態だっただろう。

 

今例示した3人の場合、人体実験の事実を隠そうとしていない。筆者が731部隊についての研究を開始した当初、そこでの人体実験の暴露は大変な作業となるだろうと懸念していた。しかし先の『衛生史』(The History of Army Hygiene during the Greater East Asia War)の例にもあるように、ちょっとした努力で成し遂げられた。むしろ予想外に容易だったと言うべきかもしれない。今振り返ってみると、731部隊の研究者たちの多くは自らが行った人体実験について特別な隠蔽工作を行っていなかった。彼らは少なくとも自分から社会に対して自分たちの罪業を明らかにし、自己批判をしたことはないが、自分たちの世界、つまり医学界内部ではいろいろなことを発表していた。したがっていくつかの研究、特に流行性出血熱と凍傷の研究においては、誰がどのような人体実験をしたかを明らかにするのは困難ではなかった。

この原因を考えていくと、731部隊での人体実験は医学界においてはほとんど誰もが知っていたことだった、という現実に行き当たる[24]。その結果、部隊にいた研究者たちは部隊での自分たちの研究を医学論文として発表していた。さらに戦後になっても、人体実験の結果であることが明白な論文を発表したり、また部隊の思い出を医学雑誌に書いたりし、それが受理され掲載されてきた。この事実は731部隊での人体実験を日本の医学界では誰もが知っていたことを示している。

 

Organized Crimes

21世紀なっても、日本の医学界は1930年代から1945年までの医学者の蛮行について無視しつづけている。また、1945年以降に、それら蛮行で得られたデータによってまとめられた論文を学会誌に掲載したことについても、知らん振りを決め込んでいる。

その理由を日本の医学界の鈍感さだけにもとめるのは誤りだ。もっと構造的な問題があった。少なくとも1945年までの医学者の蛮行は、これまでに述べた吉村や岡本らの単独の行動ではない。

731部隊での組織的人体実験の事実を知った後の米軍の調査対象者を見ると、京大および東大の教授が数人含まれている[25]。彼らは731部隊員であったことはないが、そこでの人体実験の関連で調査対象となった。その理由は、彼らが石井の東京の研究室、軍医学校防疫研究室の嘱託だったためだ。彼らは石井の頼みに応じて自分の弟子である、吉村や岡本を部隊に送っていたのだった。教授たちは自分の弟子たちが部隊で人体実験を行うことを知っていて石井の依頼に応じたのだった。

吉村が731部隊で行った凍傷についての人体実験は、彼の京大での研究室の研究テーマでもあった。また吉村と同時に部隊に派遣された石川太刀雄丸(Ishikawa Tachiomaru)は「満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於て世界記録である・・・・・・」と書いている[26]。石川の師である清野謙二(Kiyono Kenji)はそれを、つまり日本では出合うことの少ない症例の研究ためにと期待して送り込んだのだろう。

部隊に送られた弟子による人体実験は、その師の意向をくんだものであり、日本国内では実施できない蛮行を、植民地である中国で行った、というのが実態だった。師の意向は防疫研究室を通じて中国の弟子に伝えられ、その実験結果も防疫研究室を通じて師に送られた。

 

医学界では秘密でもなんでもなかったことが、非医学界では長く知られなかった事実はどう考えるべきなのか?秘密でもなんでもなかったことだから医学界自らが「暴露し、明らかにする」必要を感じなかったという言い訳は可能だろう。しかしその場合、非医学界に対して隠されていた人体実験の異常性に気付かなかったその鈍感さは強く責められるべきだろう。あるいは逆に、異常さ故に隠してきたのなら、医学界という仲間内には人体実験の事実を知らせた、医学者・医者の特権意識、自分たちを権威と考える思考方法は昔も今も変わっていないということだ。

しかし今もう少し退いて考えてみると特に隠すという意識すらないのかもしれない。それは戦争中も同じだった可能性が高い。それが部隊の医学者による人体実験を、彼らが発表した論文その他によって意外に容易に立証できたことの原因かもしれない。それは次のように考えられる。非医学界の人間にとっては、自分が被害者・被験者にされるかも、あるいは殺されるかもしれないと思うから、残虐行為であることが理解できる。しかし医学界の人間にとってそれらは日常的な営みであり、特別な行為ではないということなのだろう。

彼らの最終的にはヒトを殺害する人体実験は、防疫研究室を媒介として、軍である731部隊などと、民である医科大学とが形成するネットワークの中で行われていた。殺害の当事者は軍の研究機関にいる医学者だが、その「利益」を享受するのは彼らだけではなく、その師である民の研究者でもあった。また実際に手を汚した研究者たちには自分たちの行為は、国や軍のためであり、さらには科学・医学の進歩に貢献しているという、言い訳も成り立った。

これは医学界だけで全てを決定し、その「結果」を社会に強要する、ということだが、現在ではそうしたことはないだろうか?ここで問題とするのは、「結果」の良し悪しではなく、医学界単独で「結果」を導く社会性の欠如を問題としている。21世紀なっても本稿で述べたような蛮行を無視しつづけている、ということこそ、日本の医学界が社会性を欠いていることを示しているのではないかと、憂慮している。このことが問題なのは、731部隊のようなストレートな蛮行を繰り返すことはないだろうが、もっと屈曲した形で蛮行が行われる危険性が高く、それをチェックする機能が乏しいということだ。



[1] Brief History of the Kwantung Army Epidemic Prevention and Water Supply Section. On April 6, 1982, this was submitted to the Diet by Ministry of Health and Welfare.

[2] Endo Saburo, I and 15year war with China, Nicchu Shorin Co., 1981

[3] Fifty-year History of the Army Medical College, 1936, Army Medical College

[4] Endo, ibid

[5] Kai’s note; Kai’s notes recorded every day the report by each investigator on Teigin’s (Imperial Bank) case that is a bank robbery incident in Tokyo in January, 1948, by Kai Bunsuke chief of 1st section of investigation of the Metropolitan Police Department. Teigin’s case was an incident in which 12 persons were killed with cyanide and money was taken. The researchers on toxic in the former Japanese Army and members of Unit 731 were suspected. But in August, a painter was arrested and was sentenced to death. He had denied his commitment to Teigin’s case until his death of 95 years in the hospital prison in 1992.

[6] Kai’s Note

[7] op.cit

[8] Hill & Victor Report, Summary Report on B.W. Investigations, December 12, 1947, Edwin V. Hill, Chief, Basic Sciences, Camp Detrick. The other investigator was Joseph Victor.

[9] Interview with Dr. Akimoto Sueo by Tsuneishi, Akimoto had been a member of the unit since 1944 to research on serology without human experimentation and gave up to be a researcher, if he wanted he would be back to Tokyo University, after returning to Japan on account of his regret that he had not been able to be opposite others’ experimentation on human.

[10] Kai’s Note

[11] Mainichi Shinbun (Mainichi News), January 4, 2002

[12] Yoshimura Hisato, Seventy-seven Years in Retrospect (Kijukaiko), Celebration committee for his 77 years old Memoir, 1984

[13] Kai’s Note, and Interviews with Dr. Meguro Masahiko from 1981 to 1988

[14] Kai’s Note

[15] Sakura Hajime, The report of the investigation on human sculls discovered at Toyama (Shinjuku), Shinjuku ward, 1992. Sakura’s investigation was carried out under the commission by Shinjuku ward.

[16] op.cit

[17] Yuasa Ken, Memory never destroyed, 1981, Nicchu Publishing Co., In this book Yuasa confesses his experiences to conduct surgical training on Chinese to kill.

[18] Tuneishi Kei-ichi, Biological warfare unit which disappeared, 1981, Kaimei-sha

[19] Kitano Masaji, On epidemic hemorrhagic fever, The History of Army Hygiene during the Greater East Asia War, vol. 7, Hygiene School of Self Defense Army, 1969

[20] Ikeda Naeo, Experimental Studies on Epidemic Hemorrhagic Fever: Pediculus Vestimenti and Xenopsylla Cheopis as Suspected Vectors of the Disease, Japanese Journal of Infectious Diseases, 1968, vol.42, No 5, pp.125-130

[21] Yoshimura, Seventy-seven Years in Retrospect

[22] Yoshimura Hisato and Iida Toshiyuki, Studies on the Reactivity of Skin Vessels to Extreme Cold, Japanese Journal of Physiology. Part 1, 1950. Part 2, 1952. Part 3, 1952

[23] Tsuneishi Kei-ichi and Asano Tomizo, Biological warfare unit and two physicians who committed suicide, 1982, Shincho-sha

[24] Naito Ryoichi, Report of Investigation Division, Legal Section, GHQ, SCAP, April 4, 1947

[25] Hill & Victor Report

[26] Ishikawa Tachiomaru, On Plague, Japanese Journal of Pathology, vol.34, No.1 & 2, 1944