小田原城東部 武家地
こうしゅうどうせいぶ ぶけち
武家地は小田原城の周の町人地以外の広い平坦地にあり、
小田原藩の施設や武家屋敷などが立ち並んでいました。
ここでは小田原城東部の武家地を紹介します。
32.御用所(ごようしょ) |
地名の由来は、この地の藩の御用所があったのでこの名がついた。 御用所とは、藩士の執務所で、 初め(元禄の頃)箱根口の門東隣りにあったが、 その後(文政の頃この地に移された。 幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。 |
33.大手前(おおてまえ) |
町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。 大手前から東に走る道路は、甲州道と交差しそこには柵門(大手先黒門)があり、 その先は唐人町に通じていた。 |
36.唐人町(とうじんちょう) |
小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、 その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、 唐人町の名称と関係があるもと考えられている。 唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、 小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、 その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。 |
37.林学(りんがく) |
この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった 渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。 なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。 |
38.林学小路(りんがくこうじ) |
林学小路は、小田原城三の丸堀端から 一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。 この地名は小田原北条氏時代からの住人であった 渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。 |
39.林学横町(りんがくよこちょう) |
この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった 渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。 林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。 |
40.下幸田(したこうだ) |
地名の由来は、小田原北条氏時代、 北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。 この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、 隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。 |
41.上幸田(うわこうだ) |
この地名は、小田原北条氏時代、 北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。 この地は、小田原城内に入る門の一つ、 幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、 下幸田ととも に幸田門を守る重要な位置にあった。 |
42.藪幸田(やぶこうだ) |
この地名は、小田原北条氏時代、 北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。 下幸田(しもこうだ)上幸田(うわこうだ)の両方に位置し、 幕末には藩士の住まいが十六軒あった。 |
43.半幸町(はんこうちょう) |
この地は、「貞享三年御引渡記録」(一六八六年)に 「竹花裏はんこ町」として見られる。 江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、 彼は四国から菱「ひし」の種子を取り寄せ、 忍びの進入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承がある。 |
44.高部屋(たかべや) |
稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、 この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。 しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。 |
45.揚土(あげつち) |
地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、 土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。 ここは小田原城の門の一つであった谷津口門近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。 なお、揚土で植栽されていた梅の実は種子が小さく、 果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。 |
46.新蔵(しんくら) |
小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、 小田原城外の北方に新たに米蔵が新設され、これを「新蔵」と呼んだ。 そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と呼んで区別したらしい。 元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。 やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。 |
47.日向屋敷(ひゅうがやしき) |
地名の由来は、慶長十九年(一六一四)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、 その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。 江戸時代末期には約十四軒の藩士の住まいがあった。 |
49.弁財天(べざいてん) |
江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。 しかし、元禄十年(一六九七)蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、 ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。 幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。 |
50.金篦小路(かなべらこう じ) |
この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、 その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたといわれている。 稲葉氏時代(一六三二~八五年)、この地に藩の御細工所があった。 後期大久保氏時代(一六八六~一八七一年)には藩士の家が八軒ほど建っていた。 |
51.鍋弦小路(なべづるこうじ) |
揚土(あげつち)道に接する小路で、その姿がコの字形で鍋の釣手に似ているため、 この名がついたといわれている。 江戸時代末期には、この小路の両側二十軒ほどの藩士の家があった。 |
52.入谷津(いりやつ) |
現在、平地に近い東側のこの辺りも、山地に近い西側と同じように入谷津とよばれる。 しかし、稲葉氏が小田原城主であった江戸時代前期にはこの辺りは谷津と呼ばれ、武家地であった。 (貞享三年御引渡記録)稲葉氏時代末期、この地は藩士屋敷が十二軒ほどあった。 江戸時代後期になってこの地域は、入谷津と呼ばれるようになったようである。 |
53.愛宕下(あたごした) |
この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、 この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、 江戸時代前期の稲葉氏時代(一六三ニ~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。 しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、 武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。 |