甲州道東部 武家地
こうしゅうどうとうぶ ぶけち



甲州道東部の武家地には大新馬場や中新馬場などの馬術の調練所や、
花ノ木の広大な土地を許された連上院や本源時などのお寺もありました。
ここでは甲州道東部の武家地を紹介します。

本源寺前
55.本源寺前(ほんげんじまえ)
地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享三年(一六八六)に
下総佐倉城(千葉県)から移封された時に写した内庵の一つであった「本源寺」にちなむものである。
本源寺前は、「堀川通り」、「内川通り」などとも呼ばれていた。

花の木
56.花の木(はなの き)
小田原北条氏時代の花ノ木は、主として連上院の寺地であった。
江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。

七枚橋
59.七枚橋(しちまいばし)
抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、
七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれたという。
後にこれが付近の地名となった。

八反畑
60.八反畑(はったんばた)
小田原北條氏の時代、この地には「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前進)という寺があった。
稲葉氏時代には藩の蔵屋敷や菜園、茶園などになった。
後期大久保氏時代には藩士の屋敷が多く、
本源寺の東横から裏手にかけては割屋敷があった。

手代町
64.手代町(てだいちょう)
地名の由来は、この地の北西の角に「手代」が住んでいたためといわれる。
ここでいう「手代」は商家の者ではなく、奉公や代官の配下藩士たちのことである。

中新馬場
65.中新馬場(なかしんばば)
地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。
稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに一二軒ほどの藩士の屋敷があったが、
幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。

大新馬場
66.大新馬場(おおしんばば)
地名の起こりは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。
江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)三月の記しに「竹花町の近く新馬場があり、
足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。

先町
67.先町(さきちょう)
地名の由来は竹ノ花町の町境から竹花広小路にかけての甲州街道の両側に、
裏組みの先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓隊)御組長屋があったことにより、
これらを称して先町といった。

裏組
68.裏組(うらぐ み)
この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人達が住む組長屋であった。
地名の由来は甲州街道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対照的に「裏組」といった。
なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。

竹花広小路
69.竹花広小路(たけのはなひろこうじ)
地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組みに分岐する地点までの小路で、
特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。

 
70.渋取(しぶとり)
古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地域であった。ところが、天正18年(一五九〇)の
豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城総構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は総構の内側と
外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に
武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。
 
 


引用・参考文献

各旧町名保存碑
小田原市教育委員会 歩く・見るおだわらの城下町・宿場町 小田原市


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