小田原城南西部 武家地
 おだわらじょうなんせいぶ ぶけち



閑静な住宅街、東海道筋の南西部の海岸寄りには、
いくつもの小路の名前が残っており、
この地が武家地であったことを匂わせます。

安斎小路
71.安斎小路(あんさいこうじ)
この地名は、地内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。
小田原北条氏四代の氏政と弟の氏照は、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた後、
この家で自害させられたと伝えられている。

町組
72.町組(まちぐみ)
地名の由来は、町奉行配下の町方同心組の長屋があったためといわれる。
この地は、江戸時代の初め蔵屋敷であったが、後に同心小屋や町同心長屋と呼ばれ、
小田原城絵図の一つである「天保図」(一八三九年)には、町組長屋の名が見られる。

水主屋敷
73.水主長屋(かこながや)
江戸時代、稲葉氏が藩主であったころ、この地に御船小屋と並んで水主長屋(加子長屋)があった。
しかし、これが地名となったのは、いつごろか不明である。
江戸時代末期、ここは藩士の家一軒、長屋三件のほかに水車小屋(車屋)があった。
なお、この地を、水主屋敷とも呼んだ。

西海子小路
74.西海子小路(さいかちこうじ)
さいかちの木が立っていたことからこの名が由来するという説がある。
江戸時代末期に中級の家臣十八軒の武家屋敷がこの道の両側に並んでいた。

狩野殿小路
75.狩野殿小路(かのどのこうじ)〔狩野小路(かのうこうじ)〕
地名の由来については、この小路に絵師の「狩野吉法眼」が住んでいたとも、
また小田原北条氏の家臣、狩野氏宅があったとも、伝承されてきた。
江戸時代この一帯は、中級の藩士が住んでいた。なおこの地は狩野小路(かのうこうじ)とも呼ばれ、
金殿小路(かなどのこうじ)とも書かれた。

諸白小路
76.諸白小路(もろはくこうじ)
この地名は、小田原城主稲葉正則の時代、
この地に上方(かみがた)の杜氏(とうじ・酒造の職)を招いて
諸白酒(もろはくしゅ・よく精白した蒸米と麹米で酒造した酒)を
造らせたことから生まれたと言われている。
道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。

天神小路
77.天神小路(てんじんこうじ)〔御花畑小路(おはなばたこうじ)〕
この地は、「貞享三年御引渡記録」(一六八六年)に初めて御花畑小路の名で表され、
その後、天神小路と呼ばれた。
地名は、東海道を隔てて北方にある天神社に由来する。
道の両側は武家地で中級の藩士が住んでいた。
なお、御花畑小路の名は、西海子小路から御花畑入り口までの短い区画の呼び名として残った。

御厩小路
78.御厩小路(おうまやこうじ)
御厩小路は、西海子小路がこの小路に交差する地点の西側に位置し、
地名の由来は小田原藩の馬屋があったことによる。
小田原城主稲葉正則がここに馬を見に来たという記録も残されている。
この小路は、熱海街道の起点でもあった。

御花畑
80.御花畑(おはなばた)
この地には、もと小田原北条氏の家臣松田氏の屋敷があった。江戸時代、
藩主稲葉氏は寛永十一年(一六三四)京都による将軍徳川家光を御花畑の客室に迎えて宴を催したり、
参勤交代で通る大名の迎賓館として、また弓・水泳など自身の鍛錬の場として使った。
その後、大久保氏の時代には武家屋敷となり、その末期には長屋や藩の御作事小屋も建てられた。

大久寺小路
82.大久寺小路(だいきゅうじこうじ)
この地名は、小田原城主大久保忠世が建立し、
前期大久保家の菩提寺でもある大久寺の門前の小路があったためと言われている。

御組長屋
83.御組長屋(おくみながや)
江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、
先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組が住む御組長屋
(新宿町組、山角町組、竹花町組)が設けられていた。
その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。

隅屋敷
86.隅屋敷
小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、
江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。
しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、
屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。
大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。


引用・参考文献

各旧町名保存碑
小田原市教育委員会 歩く・見るおだわらの城下町・宿場町 小田原市


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