石垣山一夜城
いしがきやまいちやじょう



石垣山一夜城歴史公園入り口
石垣山一夜城(以下石垣山城)は関東では初となる本格的な総石垣の城です。
地元では「一夜城」と呼ばれ親しまれていますが、正式名称は「史跡石垣山」となります。
呼び名とは裏腹に文献や現地での調査にて築城に約80日間を費やしている事が解っています。
天正18(1590)年の小田原合戦では、北条氏の降伏を促すために、
周囲の樹木を切り払い一夜で築城したかのように見せたという伝説が有名です。

一夜城伝説としては岐阜県大垣市の墨俣城、福岡県嘉麻市の益富城などがありますが、
江戸中期以降の軍記には石垣山城に関する記述が見られます。

『大三川志』には長さ6尺の籠に石を入れて石垣とした上に櫓を建て、
塀や櫓の骨組みには紙を貼りつけて白壁とした。
『北条記(関白勢囲小田原事)』には「かの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事な屋形出来るぞや」、
一夜にて現れた城を見て北条氏が驚いたなどと記されています。

しかし、これらは後世の創作の可能性が高く、100%信頼できるものではありません。
ここからは、当時の書状など史科に見られる石垣山城の築城の経緯についてご紹介します。

小田原城天守閣より石垣山一夜城を望む
小田原城天守より石垣山城を望む。

天正17(1589)年11月24日真田氏の名胡桃城(群馬県)を猪俣邦憲が奪った責任と、
北条氏政の上洛の遅延を理由に羽柴秀吉は当主北条氏直に宣戦布告状を送り付けます。(1)

天正18(1590)年3月1日、秀吉は京都を出陣、(2)
山中城など北条氏の有力支城を落とし箱根越えを果たした後、
4月6日には箱根湯本早雲寺に着陣。(3)
即日にも秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に登り築城を決断したとみられ、
以降、2交代制による昼夜問わずの普請が行われました。(4)

4月上旬小田原城の包囲が完成。(5)
総勢22万のうち14万8千の軍勢が小田原城攻囲軍に当てられ、(6)
各武将の陣場には堀と柵が廻らされていました。(7)

4月28日、芝山宗勝が芝弥八郎に宛てた書状では来月中には石垣山城が完成するとあり、(8)
5月14日、秀吉が北政所に宛てた書状では早くも石垣や台所が完成し、
やがて御殿や天守も完成すると記されています。(9)

『木村宇右門覚書書(伊達政宗言行録)』には
伊達政宗が6月9日に続いて10日に伺候した際に前日には無かった白壁が完成しており、
政宗はこれを白紙によるものと見破り秀吉をはじめ諸大名を感心させたと記されています。

6月26日、秀吉は陣所を石垣山城に移し、その夜22時に一斉に鉄砲を放たせたとあります。(10)
このデモンストレーションとも言える行為と、
政宗のエピソードが一夜城伝説に繋がる可能性があるかもしれません。

工期としては天正18年4月から6月26日までの約80日間が築城に費やされており、
石垣の専門職人『穴太(あのう)衆』が関わっていたと考えられています。(小早川文書)

単純な比較はできないのですが、秀吉の城として長浜城が3〜4年、大阪城は本丸だけで1年、
肥前名護屋城で8ヶ月ですので、わずか3ヶ月満たないとあればかなりの突貫工事になります。
おそらく天下普請のように諸大名が各持場を担当して一斉に造り上げたのではないかと考えられます。


小田原合戦攻防図

一方、攻城戦の状況は5月16日の『多聞院日記』によると、周囲五里(約20q ※実際は9km)にも及ぶ、
外郭線「総構(そうがまえ)」が小田原城には築かれており北条氏は約6万の兵で籠っていました。
路上には人と馬の死体が多く、死臭が漂っていたと記されています。(11)
目立った戦闘の記録が殆ど見られないことから、秀吉は巨大な小田原城を攻めあぐね、
直接的な攻撃から北条氏の家臣の切り崩しなどの調略戦に切り替えた可能性があります。

また、当初から長期戦を想定し大量の兵糧の確保を長束正家に命じており、(12)
配下の武将や北政所などに送った書状には「干殺にする」などと綴られていました。(13)


北条氏政、氏照の墓所
北条氏政、氏照の墓所

難攻不落の小田原城をよそに、関東各地に展開する北条氏の支城は、
秀吉軍の別働隊によって悉く落とされてしまいます。(14)
また、本城小田原城においても投降や秀吉と内通を計る者が現れはじめ状況は悪化を辿ります。

7月1日、こうした状況の中、ついに氏直は秀吉への降伏を決意します。(15)
7月5日、氏直は自らの命を引き換えに一族、家臣、領民の助命を求め、
弟氏房と共に剃髪し滝川雄利の陣へ投降、小田原城は開城となりました。

7月11日、抗戦派の氏直の父氏政、その弟氏照、内通を計り失敗に終わった松田憲秀および、
松井田城開城後道案内までした大道寺政繁らには切腹が命じられ、
当主の氏直は高野山へ追放、約100年続いた北条家は滅び、秀吉は天下を手中に治めます。

以上が石垣山城の築城に関わる歴史的な背景です。
では、一夜城伝説についてまとめたいと思います。

小田原城から望むと石垣が井戸曲輪から天守にかけて重なって見えたと考えています。
この画像は石垣山城と小田原城との位置関係を表しています。
面白い事に、石垣山城の天守台と井戸曲輪を結ぶ線上の、
ほぼ同軸延長に小田原城本丸が置かれています。
これは偶然か、はたまた何かを意味しているのでしょうか?

私の想像ですが、曲輪取りを小田原城本丸に合わせて直線に配することで、
小田原城からは井戸曲輪から天守まで石垣が何層にも重なって見えたのではないでしょうか。
また、城を覆い隠す範囲を狭めることも可能です。
他の城域での樹木の伐採が可能とあれば築城の際の作業効率向上へと繋がります。

江戸中期の軍記ですが『北条記』には「見事な屋形出来るぞや」とあります。
もしこの記述の裏付けが可能であれば、
北条氏が見て驚いたのは石垣ではなく天守ではないでしょうか。
石垣普請が大がかりで既に北条氏に知れ渡ったとしても天守だけを覆い隠せる可能性は高いです。
視覚効果として何層にも重なった石垣の上に東国では珍しい天守が現れたとあれば、
最後まで抵抗をし続けた北条氏を驚かせることも可能でしょう。

以上は私の独断と偏見ですが、僅か80日間の短期間で当時最新の技術を投入した総石垣の城が、
小田原城を見下ろす山の頂に現れたのですから北条氏にとっては脅威になったことは間違いないでしょう。
秀吉が6月26日に石垣山城に入城して僅か数日、北条氏直が7月1日に降伏を決断していますから、
この期間に何らかのデモンストレーションがあった可能性も否定できません。

根拠となる史科が少ないため謎の多い一夜城伝説ですが、
家忠日記に見られる夜中の鉄砲の一斉射撃や伊達政宗のエピソードもあります。
今後の研究成果に期待しましょう。


より大きな地図で 石垣山城 を表示

石垣山城は小田原城より南西の箱根外輪山に位置し、
史跡公園として整備され駐車場も完備しています。
公共交通機関はJR早川駅若しくは箱根登山鉄道入生田駅が最寄駅となりますが、
どちらも駅より徒歩1時間程度の山登りとなります。

旧城道東登口
公園入り口からの登城口です。
立看板には旧城道東登口と書かれています。
この城道は箱根湯本から早川方面に続く関白道から石垣山城に登城する道です。

石垣山一夜城の説明板
石垣山城の説明板です。

標高257m、小田原城本丸から僅か3kmの位置にある石垣山は元々笠懸山と呼ばれましたが、
築城当時では「御座所の城」、「関白様御城」などの名称が史科にみられるところです。
享保5(1720)年に描かれた絵図面には『太閤御陣城石垣山古城跡』(以下有浦図)と銘打ってあり、
ほか江戸時代の軍記にも「石垣山」の名称がみられることから、
少なくても江戸中期には「石垣山」と呼ばれていたのでしょう。

小田原市史 別編城郭より縄張り図を描きました
1995 小田原市史 別編 城郭より加筆、着色
小田原市史に掲載されている縄張り図を元に作成した画像に各見所の番号を振りました。
調査当初は深い竹やぶに覆われ石垣も見えなかったのですが、
調査をされた小田原城郭研究会の方々をはじめ、
当時の管理責任者の故月村仙造氏の御協力により一夜城の縄張が明らかになりました。
又、月村氏によると関東大震災以前では石垣が見事に聳え立っていたそうです。

赤い線は城道ですが、東から入る道と北から入る道の2本の城道があります。
現在北からの城道は利用できません。

では、以下より有浦図と小田原城郭研究会による実測の成果と比較しながら、
石垣山城の現況を紹介致します。

@天守台跡
@ 天守台跡
本城曲輪より西南に張り出しており、標高は261.5m石垣山城での最高地になります。
比高は本城曲輪に対し4m、西曲輪に対し10mほど高く、
有浦図では西曲輪から八間約14mあったと記されており、現況は4m程低い値になります。
外観は小さい小山という印象で風化してしまった感があります。

有浦図に記されている面積は13間x8間(約23mx14m)とあり、
小田原城郭研究会による平場頂部の実測では18x13mを計測しており、(16)
現況と比較すると大分崩れ落ちていることがわかります。

昭和36(1961)年に久保田正男氏によって天守台東側から「辛卯八月日」と箆書きされた瓦が採取され、
平成2(1990)年にも小田原市教育委員会の調査中に「天正19年」と箆書きされた平瓦が採取されました。(17)
辛卯とは天正19(1591)年を表しており小田原合戦終結後から1年後に瓦が焼かれていることを意味しています。(18)

さらに、最新の科学分析によると、瓦に使用された胎土の組成が、
静岡県の安倍川よりも東で採取されたものであることがわかっています。(19)

約80日間の築城期間で東国で採取した粘土から瓦を焼成するには無理があることから、
築城当時瓦葺屋根はなく、小田原合戦終結後に瓦葺きが用いられたと考えられます。

つまり、小田原合戦終結後も石垣山城の何等かの利用があった事を裏付けられる結果が出ています。
秀吉による奥州仕置政策の一環として築城が続けられたという説がありますが、
今後の研究成果に期待したいところです。

A 本丸(本城曲輪)跡
A 本城曲輪
所謂本丸ですが標高は約257m曲輪としては最高地となります。
有浦図では50間x38間(約90mx69m)、実測値は90x75〜90mとなりほぼ一致しており、
面積は7800uとなります。(16)

公園化に伴う発掘調査にて敷石が各所にて確認されており、
天守台近くからは建物の礎石とみられる円礫を検出しています。(20)
秀吉が北政所へ宛てた書状の中で天守や御殿もまもなくできると綴っていることからも、
何らかの建物があったことを裏付けております。(13)

本丸展望台より小田原城を望みます
本丸展望台より小田原城を望みます。
小田原城下だけでなく三浦半島や房総半島まで一望できます。
約400年前秀吉も同じ光景を眺めていたのでしょうね。

本丸から二の丸を望みます
本丸から二の丸(馬屋曲輪)を望みます。

B 本丸北門
B 本城曲輪北門
二の丸から本丸に入る登城口です。
有浦図では「門跡道幅二間」約3.6mの敷幅があったと記されています。

石垣が崩れてしまってますが、丁度石が転がっている場所が登城道です。
画像左から登って画像右で奥へと折れ曲がっているのがわかります。
完全な枡形門ではないですが、北条氏の城では見られない構造の門です。
※マウスカーソルを画像に当ててみてください

北門の張り出し
こちらは二の丸から撮影した北門の張り出しですが、
この張り出し地形から登城し先ほどの枡形へ続きます。
このように北門は枡形と張り出しを組み合わせた珍しい構造の門です。
神社の参道のように登城を披露する為の階段と考える研究者もいます。

C 本丸東門
C 本城曲輪東門
北門と同じ掘込み枡形の門でこちらが本丸正門の説が有力です。
有浦図では「門跡道幅五間」約9mの敷幅があったと記されており、
現在の実測値とほぼ一致しています。(16)
画像奥左へ折れ曲がりますがかなり急な坂です。
※マウスカーソルを画像に当ててみてください

石垣山城 西帯曲輪
本城曲輪外周には帯曲輪が施されており、西曲輪と馬屋曲輪に接続しています。
画像は西側の帯曲輪です。
有浦図では比高差7間(12.6m)となっています。

石垣山城 西下段帯曲輪
西帯曲輪は上段と下段の2重構造です。
画像は西下段帯曲輪です。
さらに下、西斜面にも石垣あるいは崩落の石が見られますがこれ以上は危険です。

石垣山城 東帯曲輪
こちらは東帯曲輪になります。
大手門から続く馬屋曲輪へと続きます。

D 二の丸跡(馬屋曲輪)
D 馬屋曲輪
標高243m、本城曲輪の北に位置しており、
その名の通り馬屋があったのではないかと言われます。
『新編相模国風土記稿』では「二の丸」として紹介されています。
有浦図では48x40間(91x72m)実測では90x70mとなりほぼ一致しており、
面積は9960uとなり一番広い面積を持ちます。(16)

石垣山城 馬洗出水
本城曲輪北門近く脇には馬洗出水と称した湧水もあり、
条件が整えば現在でも観察できます。

石垣山城は元々3条の尾根からなる地形を持っていました。
この湧水はもともとあった沢による水脈で井戸曲輪まで続いています。
馬屋曲輪は谷戸地形を大幅に造成した曲輪である事が発掘調査の成果からも判明しました。

本丸の石垣
二の丸から本丸を望むと石垣がありました。
有浦図には「石垣高六間」約11mとあり、現況の比高14mとほぼ近い値です。(16)
度重なる震災にも耐えその面影を残しています。
一夜城の石垣は穴太(あのう)衆による野面積みという積み方です。
野面積みとは自然の石や素割の石をそのまま積む技法で、
お城の石垣としては初期の積み方ですが、排水に優れています。

早川石丁場の石材
こちらは駐車場に展示されている一夜城近くの早川石丁場の石材です。
江戸時代に江戸城修復の為に切り出されたと考えられており、
矢穴を用いて石を割る技法で石垣山城の石材とは明らかに違います。

又、石垣山城築城翌年から築城が始まった肥前名護屋城では矢穴が見られ、
石垣山城では矢穴が見られません。
小田原合戦を転機として石材の切り出し方法が変わった可能性もあり、
同時期或いは古い野面積みの石垣の殆どがその後の普請によって埋没しているため、
矢穴の無い野面積みを生で観られる例が限られています。
その意味においても石垣山城の石垣は貴重な石垣となります。

二の丸の櫓台
二の丸の櫓台です。
現在は天守台同様に小さな土壇となりますが、
月村仙造氏によると関東大震災まで立派な石垣が残っていたそうです。

月村さんが将来公園化に向けて育てた松です。
月村さんが将来の公園化に向けて訪れたの方々に楽しんで頂く為にもと育てた松です。
昭和34(1959)年5月13日『史跡石垣山』として国指定史跡の指定を受け、
地主の松岡さんをはじめ地元の方々の御協力により昭和62年に公有地となり現在に至ります。

E 二の丸北張出
E 馬屋曲輪北張出
二の丸の北部に位置する帯曲輪のような細い張出です。
有浦図では「長三十六間 横八間」約65x14.4mとあります。
画像右側の真下には井戸曲輪と北からの城道があります。

北展望台から小田原城下を望む
北展望台から小田原城下を望みます。

北曲輪
北展望台の先に北曲輪があります。
石垣が無い曲輪で当初城の一部ではないと思われていました。

『新編相模風土国記稿』では三の丸と称し、大久寺の開山日英が、
小田原合戦終結後から翌年まで住んだ「聖屋敷」として紹介されています。
現在私有地となっており曲輪内には入れません。

F 井戸曲輪
F 井戸曲輪
この井戸曲輪の石垣は本当に素晴らしく、
大きな桝の下に小さな桝を設けるような構造を持ち、
高石垣による城壁で構成されています。
構造も独特でこの石垣山城で代表的な見所です。
全国でも他に例のない曲輪です。

井戸曲輪中央の井戸
井戸曲輪中央の井戸を撮影しました。
もともとあった天然の沢を石垣で囲みダムとして貯水能力を持たせています。
条件が整えば現在でも湧き水を確認できます。
最近ではパワースポットとして注目されているようです。

井戸曲輪の巨石
井戸曲輪に残る巨石です。
画像ではわかりにくいですが、かなり大きな石です。

井戸曲輪北側の石垣
北側の石塁ですが、画像左上に櫓台があります。
井戸曲輪を遮蔽する壁が石垣によって造られています。
前途の通り、この壁は小田原城に向けられています。

現在見学できませんが、櫓台のさらに左側には北からの城道が続いています。
有浦図では「道幅四間」約7mと記されており、
さらにその先には「裏門跡」とあります。有浦図では搦手と解釈しているようですが、
小田原城に近いこちらが大手門と解釈している研究家もいます。

G 西曲輪
G 西曲輪
標高250m、敵地小田原城から隠れ本曲輪の西側にある曲輪です。
かなり広い曲輪で、有浦図では「長四十九間横八間」約89x14.4mとあり、
実測では30〜45x90m、1200uの面積を持ちます。(16)
天守裏に位置し山里曲輪に適した環境を備えていると言及する研究者もいます。

秀吉は石垣山城に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者らを呼んで茶会を開いたり、
自ら淀君を呼びつけるなどして持久戦に望みました。
諸大名にもこれに習うように薦めており、
ひょっとしたら西曲輪で盛大な茶会を催したかもしれませんね。

西曲輪の櫓台
西曲輪の櫓台です。

西曲輪の門の跡
西曲輪の門の跡です。
石垣と土の盛り上がりがありますが門の形状は不明です。

H 大手門
H 大手門
有浦図では「大手門道幅四間」約7.2mと記されており、
安土城の大手道とほぼ同規模の登城道になります。
大手門の割には城の内部に位置します。

鍵状に折り曲げた東の城道の中央に位置します
鍵状に折り曲げた東の城道の中央に位置します。
門の形状は不明です。


こちらは大手門手前、南曲輪に面する石ですが、
「此石可き左右加藤肥後守石場」という金石文が彫られています。
加藤肥後守とは加藤清正或いはその息子忠広のどちらかと見られています。

小田原から伊豆地方にかけて相模湾に面する地域では、
お城の石垣に適した良質の安山岩の産地として同様の金石文が彫られた石が見られ、
各地に同様の石丁場(石材の採掘所)が設けられた事が解っています。

この石垣山の金石文の石により、江戸城普請の際の石丁場として、
石垣山城が使われたのではないかと推測されています。(21)

I 南曲輪
I 南曲輪
大手門の手前にあり、
大手筋を防衛する重要な曲輪ですね。
有浦図では「長二十間 横十三間」約36x23m、現況では25〜47x30m、
面積は1200uとなります。(16)

南曲輪の櫓台
南曲輪の櫓台です。
城道が90度折れ曲がる位置にあります。

南曲輪の石垣
南曲輪下の石垣です。
かなりの規模の石垣でその大きさに驚くばかりです。
石垣の規模から考えても一時的な陣城ではなく、
恒久的な使用を目的とした城と考えられます。

J 東曲輪上段
J 東曲輪
画像は上段です。
上中下と3段に別れて城道を南曲輪と挟み込むように横矢掛りの効果のある曲輪です。
有浦図では東曲輪が描かれておりません。

東曲輪中段
中段です。

東曲輪下段
下段です。

南曲輪と東曲輪に挟まれる城道
南曲輪と東曲輪に挟まれる城道はかなり急な坂です。
敵兵が進入した場合左右から横矢をかけることができます。
有浦図では敷幅8間約14.4mとあり、大手門が4間ですから、
城道として約2倍の敷幅を考慮してこちらが大手筋と考えて良いでしょう。


画像はこの城道に伴う石列です。
途中失われていますが、2列に併走している事から排水路と考えて間違いないでしょう。

K 大堀切
K 大堀切
現況で堀の肩幅は50m、底幅25m、深さ10mを計る大きな空堀です。
右手の石垣は南曲輪から西曲輪へと続く迫力がある石垣です。

又、1985〜87年にかけて農道拡幅に伴う発掘調査が行われており、
出曲輪側東南部において堀の屈曲が確認されています。
深さは最大4.4m、敷幅10mと予測されており、法面の角度は60〜70度となっています。

L 出曲輪
L 出曲輪
大堀切を挟んで駐車場の奥には出曲輪があります。
有浦図では46x24間(83x43m)、実測(堀内側)では100x50mとなります。(16)

この出曲輪には石垣が見られない事から、
元々北条氏の支城を改造して造られたという指摘もあります。

又、朝日の井戸という石積みを伴った井戸があり、
他石垣山城周辺に同様の井戸が7か所あったという伝承もあります。

この出曲輪は私有地のですので内部には入らないでください。

ハイキングコースに設置された『石垣山に参陣した武将たち』の説明板
早川駅からのハイキングコースに設置された『石垣山に参陣した武将たち』の説明板です。
豊臣秀吉、淀君、千利休、羽柴秀次、徳川家康、伊達政宗、宇喜多秀家、堀秀政
以上、8人が各所に展示されています。

石垣山城はほぼ城域が開発されず残る貴重なお城です。
小田原城を見下ろす眺望も素晴らしいです。
ハイキングコースとしても楽しめます。
晴れた日に是非出かけてみましょう。



(1) 小田原市史 史科編 原始古代中世I 734 豊臣秀吉書状 北条文書ほか
(2) 小田原市史 史科編 原始古代中世I 768 蓮成院記録ほか
(3) 小田原市史 史科編 原始古代中世I796 豊臣秀吉書状 大阪城天守閣蔵
(4) 神奈川県史資料編3 古代・中世(3下) 9777 豊臣秀吉書状 浅野文書
(5) 小田原市史 史科編 原始古代中世I802 小田原陣仕寄陣取図 山口県文書館所蔵
(6) 日本戦史 小田原役
(7) 小田原市史 史科編 原始古代中世I798 豊臣秀吉書状 鍋島報效会所蔵
(8) 小田原市史 史科編 原始古代中世I827 芝山宗勝書状 五島慶太所蔵
(9) 小田原市史 史科編 原始古代中世I843 豊臣秀吉書状 神奈川県立博物館所蔵
(10) 小田原市史 史科編 原始古代中世I876 家忠日記
(11) 小田原市史 史科編 原始古代中世I846 多聞院日記
(12) 小田原市史 史科編 原始古代中世I728 豊臣秀吉書状 東京大学史科編纂所所蔵
(13)  小田原市史 史科編 原始古代中世I843 豊臣秀吉書状 神奈川県立博物館所蔵ほか
(14)  小田原市史 史科編 原始古代中世I880 榊原康政書状写 松平義行所蔵
(15) 小田原市史 史科編 小田原北条2 中世III2076 北条氏直書状 春日正淳所蔵
(16) 小田原城郭研究会 1989 小田原市郷土文化館研究報告第25
(17) 小田原市教育委員会 1993 史跡石垣山III
(18) 久保田正男 1969 『日本城郭史論叢』石垣山城の古瓦からみた研究
(19)池谷信之・池谷初恵 2012 『平成23年小田原市遺跡調査発表会 発表要旨』
石垣山城・近世小田原城出土瓦の胎土分析
(20) 小田原市教育委員会 1992 小田原市文化財調査報告第38集 史跡石垣山II
(21)大島慎一 1999 『小田原市郷土文化館研究報告第35集』
資料紹介 史跡石垣山一夜城発見の加藤肥後守銘金石文について


主要参考文献

神奈川県 1979 神奈川県史資料編3 古代・中世(3下) 神奈川県
小田原市編さん委員会 1998 小田原市史 通史編 原始古代中世 小田原市
小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 史科編 原始古代中世I 小田原市
小田原市編さん委員会 1993 小田原市史 史科編 小田原北条2 中世III 小田原市
田代道彌ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
小田原市編さん委員会 2003 小田原市史 別編 年表 小田原市
小田原城郭研究会 1989 小田原市郷土文化館研究報告第25 小田原市
小田原市教育委員会 1991 小田原市文化財調査報告第35集 史跡石垣山I 小田原市
小田原市教育委員会 1992 小田原市文化財調査報告第38集 史跡石垣山II 小田原市
小田原市教育委員会 1993 小田原市文化財調査報告第44集 史跡石垣山III 小田原市
大島慎一 1999 『小田原市郷土文化館研究報告第35集』
資料紹介 史跡石垣山一夜城発見の加藤肥後守銘金石文について 小田原市
小田原城天守閣 2004 瓦は語る 小田原市
池谷信之・池谷初恵 2012 『平成23年小田原市遺跡調査発表会 発表要旨』
石垣山城・近世小田原城出土瓦の胎土分析 小田原市
蘆田伊人 1970 『大日本地誌体系20 新編相模国風土記稿 第二巻』 雄山閣
参謀本部編 1914 日本戦史小田原役 元真社
小田原城郭研究会 1987 箱根をめぐる古城30選 かなしんブックス
小笠原清ほか 2005 戦国の魁 早雲と北条一族 新人物往来社
原著 江西逸志子 訳 岸正尚 原本現代訳 小田原北条記 (上)、(下)
小田原市郷土文化館 2011小田原市制七十周年記念特別展 都市おだわらの創生
田代道彌 1980 日本城郭体系6 千葉・神奈川の城郭 新人物往来社
小笠原清、大島慎一ほか 1995 歴史群像名城シリーズ8 小田原城 学習研究社
盛本昌広 1999 松平家忠日記 角川選書
諏訪間順ほか小田原市教育委員会 2008 シンポジウム中世小田原城と石垣山城そして近世小田原城へ記録集
佐々木健策 2011 関東の名城を歩く南関東編 吉川弘文館
小田原市教育委員会 2011 最新出土品展2011「発掘された文字の世界」配布資料
相田二郎 1980 小田原合戦 小田原文庫
下山治久 1996 小田原合戦 角川選書
齊藤慎一 2005 戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一 中央公論新社
相川司 2009 戦国・北条一族 関東制覇の栄光と挫折 新紀元社
池亨 2012 争乱の東国史7 東国の戦国争乱と織豊権力 吉川弘文館
黒田基樹 2012 中世武士選書8 戦国北条氏五代 戎光祥出版
黒田基樹 2012 敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏 吉川弘文館
大阪城天守閣 2012 特別展秀吉の城 公益財団法人 大阪市博物館協会 大阪城天守閣

史跡石垣山一夜城歴史公園説明板


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