谷津御鐘ノ台

岩槻台と書かれた立て札がありました
小田原駅から谷津山丘陵地の住宅街を登って歩くと、
地元の公民館が設置した『岩槻台』と書かれた立て札がありました。
天主台とも書かれていますが、天守閣の事ではないと思います。

北條五代記の総構の説明に『周囲に塀を廻らし殿主を置く』と書かれており、
平屋又は2階建てぐらいの大きな御殿のような建物のことを指すのではないかとのこと。
又、御鐘ノ台という伝承からこの辺りに鐘を鳴らす見張り台、
若しくは狼煙台があったと思われます。


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小田原駅のほぼ北部、歩いて15分程度の丘陵地に、御鐘ノ台があります。
秀吉の小田原攻めの際にこの辺りを守ったのは岩槻城城主北條(大田)氏房です。

御鐘ノ台
この画像ではわかりにくいかもしれませんが、
画像奥の丘陵地がその御鐘ノ台で、四角い構造の地形が残されています。
現在は民家が建ち何も残されていません。

総構の堀
御鐘ノ台からさらに北に向かい丘陵地を降りていくと、
総構の堀が現れました。

手前が掻揚、そして堀、一番奥が城壁です
手前が掻揚、そして堀、一番奥が城壁です。
傾斜60〜70度に削られた城壁ですが、ここを攻め登るのは至難の業です。

久野口想定地
この場所は久野口想定地です。
喰違虎口と思われる90度の折れ曲がりが小道に繰り返されています。

久野口想定地
現在未調査とのことではっきりとした事が解っていませんが、
丁度この小道の上に御鐘ノ台があり見下ろせる位置にあります。

五輪搭など古いお墓
小道を降りると五輪搭など鎌倉時代以降と思われる中世の古いお墓がありました。
こうしたお墓は江戸時代の数度の震災で崩れた小田原城の石垣の修復に、
裏込石として使われてしまい数が少ないようです。

又、関連性があるかどうか解りませんが、北条五代記によると、
この辺りを守った北條氏房は唯一北條方からの攻撃を近くの蒲生氏郷の陣に仕掛けています。

城壁と掘は谷津山尾根筋に沿って井細田口まで続きます
城壁と掘は谷津山尾根筋に沿って井細田口まで続きます。
画像ではわかりにくいですが、竹藪の中が掘りです。
手前の穴は防空壕の跡だそうです。

コンクリート化された城壁
こちらは崩落を防ぐ為にコンクリート化された城壁です。
開発されてしまったのは残念ですが、総構の規模の大きさが現在でも伺えます。

小田急線によって削平されてしまった谷津山
小田急線によって削平されてしまった谷津山です。
画像右手前の自然の傾斜の手前には民家が立ちますが、おそらく堀でしょう。
線路を跨いで本来谷津山尾根筋はさらに続くのですがこれ以上先は削平されています。

石垣化された土塁は墓地として利用されています
さらに井細田口方面に進むと石垣化された土塁が現れました。
現在は墓地として利用されています。

このお寺さんも土塁の上にあります
先ほどの土塁上の墓地はこのお寺さんの墓地になりますが、
このお寺さんも土塁の上にあります。

井細田口
井細田口ですが、ここより先は低地となり渋取川が堀として使われました。
大外郭の北東部は谷津山尾根筋と渋取川を天然の要害をとして、
上手く取り込み利用されていた事が解ります。

この井細田口近辺を『竹の花町』と言いますが、これは当て字で古くは『岳の鼻』と書き、
つまり丘陵地の先端の低地を指すのではないかとのこと。
この地名は全国に多くあり地名からも谷津山尾根筋がこの近くまで伸びていたのが解ります。

谷津御鐘ノ台から井細田口まで踏み込んで谷津山尾根筋を紹介しました。
この谷津山尾根筋も良好な城跡が残されております。
非常に面白い地域ですので是非一度散策してみては如何でしょうか。


引用・参考文献

小笠原清ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
西ヶ谷恭弘 2004 歴史街道スペシャル名城を歩く18 小田原城 PHP研究所参考文献
原著 江西逸志子 訳 岸正尚 原本現代訳 小田原北条記 (上)、(下)


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